他人のせいにするな!

 高知工科大学学長の末松安晴氏が、『家庭のしつけ』という新聞のコラムで『幼児期が人格形成の基』と力説されていた。子供の「しつけ」は4〜5歳の時期までであって、ある種の習慣的な能力を教えるには頭の固まっていないこの時期に行わなければ大変困難になると。
 昔から「三つ子の魂百まで」と言う言葉もある様に、幼児期の躾が大切ということは、改めて氏に指摘されるまでもなく多くの人々が体感していることである。それとても人間が成長していく過程の中で学んでいったことである。今になれば理解できるけれども、自分の子供が二歳から五歳くらいの時、二十代から三十代の時には決して理解できてはいなかった。戦争に負け「躾」どころではなかったというのが、我々親達の言い訳の一つになっている。食べていくのがやっとの時代だったと。このコラム氏とて、若い頃から理解できていたわけではなかったはずである。
 医者の不養生という言葉もあるように、躾を論じている人の家庭の躾が一番なっていなかったりするということはよくある話である。大切なのは、自分が正しいと信ずることを、迷わずに実行することではないだろうか。「躾」の問題も同じではないのか。
 最近『孫』という曲が流行っているという。世の中が豊かになり、生活にも多少余裕が出てきた。昔自分の子供にしてやれなかったことを『孫』にしてやる。それが孫を甘やかすことだと知っていてもどうしても大目に見てしまう。悪循環の繰り返しである。結局は戦争のせいではないのである。
 先日閉幕したシドニーオリンピックで起こった柔道の篠原選手の判定問題には釈然としない後味の悪さが残った。どの新聞も「不可解とも見られる技の判定」とこぞって書き連ねていたが、国際柔道連盟規約には「主審と副審が試合を離れた後には、主審はその判定をかえられない」とある。「不可解」また「不服」と思ったら、例え試合中であれ、試合を放棄して抗議すべきであり、それを実行しなかった選手、関係者の対応こそが問われるべきではなかったのか。
 以前からこの様な体質が柔道連盟にはある。国内の代表選考会で優勝したのにオリンピックに行けなかったということもあった。そういう人間のことを思ったら、そう簡単に引き下がってはいけなかったはずである。はっきりと勝っていると信じるならば、篠原選手はもっと明確に抗議すべきであった。それをしなかった己の愚かさを恥じるべきであり、決して「他人のせいにして」欲しくない。