自分さえよければ人の事など

 駅を出ると、秋空に突き刺さる高層ビルが視界に入った。東海地区にあるこの街は、企業城下町として知られる。高層のオフィスビルが次々に建ち、街の移り変わりは早い。
 待ち合わせ場所に「彼」が現れた。四十一歳。紺色のスーツ。髪は七三分け。ズボンの折り目が薄れたところに、一日の疲れがちょっとにじむ。周囲を気にしているのか、わずかに視線を泳がせる。
 始まりは七年前。「先輩の女性社員とうまくいかなくて」。六歳年下の女性社員からのそんな相談にのるうちに、酒を飲む機会が増え、いつのまにか深い関係に。
 話したくなると、突然、無人の会議室から彼女の席に何度も電話する。妻も子もいるのだが、「浮気とか不倫というレッテルをはられるのはいやだ。性欲はあるが、それがすべてじゃない。真剣な心のつながりです。うーん、この感情にはうまく説明がつかないんですよ」。バブル経済の崩壊後、会社は次々に仕事のハードルを高くする。しかし、こたえてもこたえても達成感はない。
 「会社で頑張ればそれなりの地位を得て、無事定年というゴールにたどりつくと思っていた。それは幻想だったんでしょうか」
 仕事に情熱を傾けた上の世代と違い、今の自分には居場所がない。「それでも情熱は感じていたい」。「恋する」自分を発見した時、会社でも家庭でも味わえない安らぎに出会えたと思っている。
 埼玉県に住む三十七歳の商社マン。週末は、買い物や食事に小まめに付き合い、妻と子供に「尽くす」と決めている。でも、本当に楽しいのは、三十歳の恋人と二人だけで過ごす時間だ。
 「ふだんはいい社員、いい父親や夫を演じている。でも、彼女といると、なんだかどきどきしてエネルギーもわいてくるんです」
 会って食事をし、彼女のアパートに立ち寄り、セックスをする。帰り際に必ず、缶ビールを一気に飲む。女性と会っていた痕跡を、酔いが消してくれる。会えない日は、寝る前に携帯電話でメールを送る。しかし、妻の目に触れないよう、送信済みメールを削除することは忘れない。
 離婚が頭をよぎったことはあるが、結局宙に浮いたまま。「今は厳しい時代。どんなに好きな女性でもまた一からやり直すのは」と語尾は消えていく。
 「ちょっと身勝手ですね」と記者が言うと、「そうかもしれませんね」と頷いた。
 恋愛中の三十代、四十代サラリーマンが一様に口にする言葉は「心の支え」「エネルギー」「生きる糧」。しかし、恋人に安らぎを求めながら家庭を壊すことはない。
 彼らが熱中している小説がある。「一瞬の光」「不自由な心」など作家白石一文さんの作品。エリートサラリーマンの主人公が、企業の中でほんろうされながら、女性との出会いで心が動かされる様子を描く。
 出版元の角川書店に寄せられる読者の手紙は、男性の場合、「気持ちがわかる」との共感が大半なのに対し、女性の反応は「主人公は男の都合だけで行動し、身勝手」。
 ジャーナリストの亀山早苗さんは、著者「不倫の恋で苦しむ男たち」のための取材で、驚くことが多かった。「感情の機微を表す語彙が少ない。本音を語らない。語れない。男性は自分を抑え、集団の中で生きることを求められてきた。恋をしてはじめて個としての生き方を突きつけられる。そこで戸惑っているのではないか」
 「恋」はある時には人間らしさの確認であり、ある時には逃げ場にもなる。安らかさと豊かさを自明のこととしてきた時代から、不安と不信の時代へ。多くの人が「人恋しさ」を求め、他人と緊密な関係を結びたがっている。社会全体が重苦しいものに覆われつつある今、そんな現象があちこちに見えてきた。後ろを振り返って「空しさ」が残らないよう日々を大切にしたい。「一時」の快感で一生を台無しにしないよう。