助けて下さい

 バブル経済の崩壊が、早期退職者の人生設計に誤算を生じさせた。
 三井物産・調査情報部の管理職にあった平尾行隆さん(昭和十五年生まれ)が辞表を提出した五十歳の平成二年は、奇しくもバブルが弾けた年でもある。その後、不況が十年以上にわたってつづくとは、当時は思いもよらなかったし、それまでの発想や方針が一朝一夕に転換できるものでもなかった。スペイン語を得意として、在職中はブラジル、エルサルバドル、コロンビアに駐在し、その他中南米諸国やスペインにも出張で赴いている。この経験と人脈を武器に攻めのビジネスを展開した。
「自宅を事務所にして、スペインや中南米との文化交流をプロモートする仕事を私なりに手がけるのがいい。手はじめに日本では知られていない中南米の美術家の作品を買いつける仲介をするのがいい、と考えましてね」
 第二の人生の礎を築くべく、退職直後に二ヶ月間かけてエクアドル、ベネズエラ、ペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジルなど中南米諸国を旅する。現地の画廊や美術館を訪れ、画家をはじめ文化人、有力者たちと親交を深める。代官山にある画廊むけにエクアドルの画家と一億円近い商談をまとめたり、日本人画家の作品をグアテマラの大統領に贈る仲介の労をとったりスペインの画家の絵を銀座の画廊で扱ってもらったりした。さらには自身も先行投資で絵画を買い込んだ。
 しかし株価が前年の十二月をピークに下落の一途をたどりそれに呼応するかのように、日本における絵画マーケットも冷え込んできた。
「このままでは生活していけそうにない気がしましてね」
 退職して一年後、株式会社「スペイン村」に再就職をした。この会社は、そもそも三井造船が岡山県玉野市に所有する土地を有効利用するべく、そこに巨大テーマパークを造ろうと三井グループが出資して設立された。平尾さんはプロジェクトの企画、スペイン側との交渉、ブレーンの世話役をまかされた。
 最初は東京事務所に勤務するが、途中からは玉野市に長期出張の身となる。スペイン観光局の局長が視察に訪れ、岡山県知事を表敬訪問したときなど通訳を務めた。しかしこの「スペイン村」構想はバブル崩壊の国内消費の落ち込みにより、株主が中止を決定し、これまた泡と消えた。二年弱勤めて、平尾さんは職場を失ったのである。求職活動をするが、五十代半ばにさしかかる者の意に染む職場は、なかなか見つからない。百円ライターのメーカーが、メキシコとアメリカの国境付近に設立した工場で、運営責任者を募っていた。スペイン語圏における勤務ということもあって応募したが、なぜか面接をうけられないまま待たされ、結果は不採用となった。しかし、後日、その工場が閉鎖されたと知った。もしも現地に駐在していたならば、揉みくちゃにされ、心身に痛手を被っていたかもしれない。こう考えると「行かなくてよかった」と思えてきた。
 その当時を振り返って、平尾さんは手記にこう書いている。
《九四年(平成六年)になっても日本経済は下降線をたどった。私は美術以外にも手を伸ばし、石と化石の商売にも手をつけた。高松、東京、茨城の石の業者に、ペルー、スペイン、英国の業者との仲介をおこない、手数料を稼いだ。しかし、このビジネスは時間がかかった》
 この時点においても、これまでの経験から「不況のあとには好況の風が吹く」と信じていたし、いつのまにか身についたラテン的な楽天性もあって、平尾さんは攻めの姿勢を崩さなかった。
「情けない事になりましてな。もっと早くに手を打てばよかったのですが・・・・・」
 それまで海外駐在もあって、社宅暮らしをつづけてきた平尾さんが横浜・金沢八景に三LDKのマンションを購入したのは、コロンビアから帰った四五歳の時である。海の近くにあって、晴れた日は対岸にある新日鉄の君津工場が見えた。ついにはこのマイホームを売却するまで追い込まれたのである。
《私のビジネスによる収入は少なく、三井物産の退職金も使い果たし、妻に経済的な面で迷惑をかけることになり、問題は離婚を云々するまでに発展した。横浜の家のローンも支払えない状態になり、十年間住み慣れた家(マンション)を売りに出した。バブルの崩壊により、不動産の価値は下がる一方で、時期は悪かった。》毎月十万円の住宅ローンを支払えなくなるまで追い込まれ、自宅を処分した。売却価格は三千二百万円であった。それから二ヵ月後、一人娘が結婚式を挙げたが、親として披露宴を催してやることもできなかった。
 この無念さをこう綴る。《自業自得の結果であり、神から与えられた試練と思い、自ら謹慎することにした。経済困難のなかで、友人との交際を断ち、義理を一方的に欠くこととなった》
 取材したその日、平尾さんは私鉄の線路沿いに防音壁を建設する現場で、保安警備の任にあたっていた。このガードマンの仕事は、自宅を売却して引越した直後に、新聞の求人広告を見て得た。
 工事のない土曜日曜は、午前と午後の一時間半、平尾さんは建築物の損壊や地崩れなどの異常を点検するため自転車で現場を巡回し、そのほかの時間はプレハブの詰め所にこもっているという。
 会社からは信頼され、現場の責任者を任せられた。派閥やコネの力学によるのではなく、一人の人間として信頼されたことを、平尾さんは素直に喜び、引き受けたという。
「三井物産には二七年以上勤めましたが、腹を割って語り合える友人はなかった。しかしこの職場では、いろんな人たちを知り、仲間づきあいをしております」
 夕刻五時、仕事をおえると家路につく。現在の自宅は世田谷区内にある2Kのマンションである。金沢八景のマンションを売却してローンを返済し、余ったカネで新たな住まいを購入したのである。
「女性の発想には、男はかなわない。新居を求めるにあたって、私はさらに都心から離れた土地を思い描いていたのですが、カミさんは逆に都心に攻め込んでいった。世田谷区のマンションが購入できるとは、私には考えも及ばないことでしたね」
 こうして人生の仕切り直しをして、三度目の船出をする。平尾さんの口調はすこぶる明るい。いまも遠大な夢を抱きしめているからである。