今の子供は手がかかる─小野田さんに学ぶ─

駅を出ると、秋空に突き刺さる高層ビルが視界に入った。東海地区にある 日本の敗戦から、今年で五七年になる。しかし、私の戦後はその半分ほどにすぎない。私は、同年代の人と同じ感覚で「八月一五日」をとらえられない。戦争終結から三○年間、何も知らずにルバング島に残っていたから、敗戦直後の貧困も東京オリンピックも知らない。帰還した日本は高度成長の真っ最中だった。
日本帰還の道を開いてくれたのは、単身で私を捜しにやってきた鈴木紀夫君(当時二四歳)だった。彼はその後、長年の夢であった「雪男を探しにヒマラヤに出かけ、雪崩に遭って死んだ。三八歳だった。ルバング島で死を覚悟していた私は、恩人である彼の倍以上も生きている。日本に帰還した当初、戦争終結を知らせるチラシがまかれ、拡声機でもよびかけたのになぜ出てこなかったのかと、よく聞かれた。「上官の命令がなかったからだ」とずっと答えていたが、私の子供のころからのきかん気が下地にあったかもしれない。小学校一年の時、私は教室で級友の手をナイフで傷つけた。ナイフを貸してくれと頼んだら断られ、「ケチンポ」とけなすと相手はナイフを振り回した。私は身を守るため、近くの机の上にあった別のナイフで応戦したのだ。
 学校から連絡を受けた母は激怒し、私を仏間に座らせた。私は正当防衛だったことを主張したが、母は、自分の護り刀を私の目の前に置き、「人に危害を加えるような子は生かしておけません」と、私に切腹を迫った。
六歳の子にこんな無茶な要求をする親がいるものかと驚いたが、私はついに腹を切れず、「今後二度と刃物は振り回しません」と誓わされた。母はその後、この件についていっさい触れる事はなかったが、私が一三歳でフィリピンに出征するとき、言っておかねばならぬことがある、と切り出した。
 「短刀を差し出したときは大博打でした。おまえのことだから、ひよっとして本当に腹を割くかもしれない。そのときは、私も死ぬつもりでした」。私は死にたくないから腹を切れなかったが、母の述懐から、我が子の将来のために、親は腹をくくらねばならぬことがあることを知った。
 ルバングから戻ってきた日本はすっかり変貌していて、知らない国のようだった。どんな仕事をしてよいかわからずにいたとき、ブラジルに移住していた次兄から「牧場をやらないか」と勧められた。
ルバング三○年の体験で、熱帯の風土や気候は肌で知っている。自然と牛が相手なら、人間関係のしがらみに悩むこともないだろう。そう考えて帰国から一年後、私はブラジル移住を決めた。簡素な木造の家には電気も通っていなかったが、寝る間も借しんでブルドーザーを走らせ、ジャングルを開拓した。
それでも幸福を得た。移住した翌年の五月、私は五四歳で妻、町枝(当時三八歳)を迎えたのだ。彼女は自分の財産を全部処分して、ブラジルに嫁いできた。日系人やブラジル人に生け花や日本語を教え、現地に自分から溶け込んでいった。私は、長い空白の期間を経て、やっと人生の「戦友」をつかまえた。
現在、私の牧場は約千二百へクタール、成田空港より広く。千八百頭の肉牛を飼育している。牧場経営が軌道に乗ってきた八○年秋、私はブラジルの邦字新聞の小さな記事を読んで愕然とした。川崎市の浪人生が就寝中の両親を金属バットで殴り殺すという無残な事件が報じられていた。
 「日本の子供たちは追いつめられている。このままでは日本がダメになる」と考えた私は、八四年夏、日本に帰り、富士山麓で子供たちのキャンプ場を開いた。これが五年後、福島と茨城の県境に設立した「小野田自然塾」の発端になった。
私は親にずっと反抗し、困りせてばかりいた。私に子供を指導する資格があるとは思えないが、自然のなかでのサバイバル技術と知恵なら授けられる。牧場経営のスタッフにも恵まれ、私がつきっきりでいる必要はなかった。こうして、自然塾での子供の指導は私の人生最後の仕事となった。現在、ブラジルには年初の約三ヵ月間だけ戻り、残りは自然塾の仕事に専念するため、日本で過ごすようになった。
自然塾は買収した一・五へクタール、隣接した国有林二百へクタールを借り受けて開いている。一回のキャンプは小学校三年生から中学生までの約八○人。三泊四日と六泊七日のコースがある。一人で生き抜くつらさ、困難、寂しさ、友達をつくり助け合うことの喜びと大切さに気づいてもらうことが目的だから、兄弟や友達同志で申し込んできても、決して同じグループに入れない。
キャンプでは火おこし、森にある道具だけを使った牛肉の煽製づくり、ナイフやロープの使い方、北斗七星やカシオペアの位置から時間を計る方法などを教えている。
もちろん、どのグループの指導も順風満帆とはいかない。年長の子が年少の子の面倒をみようとしなかったり、衣服が汚れるから地べたに座れない子もいる。飯盒を渡せぱ「スイッチはどこですか」と真顔で聞いてくる子もいる。それに、おしなべて友達をつくるのが下手だ。
私は金属バット事件以来、家庭内暴力や校内暴力は「子供の無自覚な甘え」だと言ってきた。さらに、親も無自覚だ。ぺットの犬をかわいがるように子供を育てていると、子供は増長する。成犬になってからの調教は難しいから、待て、座れ、お預けは子犬のときに教え込むしかない。叱られたことのない犬は、自分をその家の権力者だと勘違いし、気にくわないと飼い主を噛むようになる。
切腹を命じた私の母は極端だが、戦後の親は怖い存在でなくなった。怖くないから、子供は親をなめてかかる。暴力や学校崩壊はその延長線上にあるのではないだろうか。犬も人間も、躾ができていないと手に負えなくなる。怖いもの知らずが一番怖い。「俯仰天地に恥じず」という言葉がある。お天道さまは見てござる、といった意味だが、それも躾次第だ。
キャンプでは腕力や気の強さの達いがすぐわかり、強い子が弱い子を叩く心配も出てくる。私はキャンプの初めに「自分がされて嫌なことは他人にしないこと。他人を叩けば、その子は私達スタッフに叩かれても文句言えないよね」と必ず話している。
これを体罰と避難されても構わない。教師は人に優しくしなさいと教えるが、強くなければ優しくは出来ない。寒い山中で凍えている人に自分の上着をかけてあげるのは優しい行為だが、上着を脱いだ自分はさらなる寒さに耐えないといけない。「頑張れ」と言葉で励ますだけなら、見物人と同じである。
アメリカ軍のサバイバルマニュアルに「それまでの手段や方法では生きていけなくなった時の術」という定義がある。私はジャングルで一人だったが、子供たちには、手を伸ぱせば手をつないでくれるかも知れない仲間がいる。サバイバルの一番の術は、自立心と仲間・友達なのだ。私は今年、八十路を迎える。私の人生はすでに1回、減価償却してしまった。小学校の同級生も三分の一は戦死した。私は何かのはずみで死なずにすんだだけで、残りの人生は儲けものだと思っている。儲けは独り占めにするのでなく、子供たちに返したい。
松下幸之助さんは、かつて成功の秘訣を聞かれ、「成功するまで続ける事」と答えた。私が子供たちに伝えたいことはこれである。小野田さんに学ぶものは極めて多い。