言葉は正しく理解して使うことが「いじめ」対策になるのでは

放送関係やマスメディア、とくに出版界の編集現場などでは、「差別語」およぴ「差別表現」について抗議を受けるのがいやだからという理由で問題を深く理解しないまま、苦肉の策として「差別語集」とか、「言いかえ集」など、極めて暖昧な代物を独自に作成、その場しのぎの資料として使っているという。
 その内容たるや、単なる「ことば」の羅列であり、「差別語」や「差別表現」の真の意味を理解していないのではないかと思われる内容が随所に見受けられ、ただ唖然とせざるを得ない。
 このことについて、講談社発行の「差別表現の検証」マスメディアの現場から…という本で、著者の西尾秀和氏が大変興味あることを検証しているので、その内容を一部引用して紹介する。
 『……一例として左欄(差別語の欄)に「四つ辻」という言葉が挙げられており、右欄(言いかえるべき語)には「十字路」と明記されている。
 どうやら「四つ辻」は使うな「十字路」に言いかえよ、ということらしい。別の個所にはもっとバカバカしい……ほとんど落語の世界に近い話だが、左欄に「みつこし」とあり、括弧して「三つを越せば四つである」と書かれているものもある。さすがにこの言葉には、言いかえるべき語は書かれていない。右欄は空白となっている。ま、こういった内容の代物である。
 「みつこし」は論外で、これについてものをいう気にもなれないが、「四つ辻」がなぜ差別語なのか? なぜ「十字路」と言いかえなけれぱならないのか? その理由は全く明示されていない。推測するに、おそらく「四つ」がいけないということなのだろう。それしか考えられない。
 しかし、ちよっと待って欲しい。お年寄りなどは今でも「四つ辻」とか「四つ角」ということばを日常的に使うはずだ。私が子供の頃だって、例えば道端で遊んでいて、家を尋ねられたりした場合、「あそこの四つ角を右に曲がって、右側の二件目です」などと答えたものだ。
 前後の文脈や文章をまったく省略して、一つのことばだけを取りあげ、それを「使用禁止」としてしまうような考え方に間題はないのか。
 一般論としていえば「四つ辻」が差別語であるという客観的な論拠はまったくない。しかし、使い方によっては、差別語になることがまったくないとはいえない。多くのことばは使う側の意図によっては、差別語に変質する危険性を含んでいるからだ。いずれにせよ、差別表現の基本的に暗い人からみれぱ、「言いかえ集」は一面便利な存在にはちがいないが、他方ではひどく危険な面も含んでいる。
 まず前後の文脈と無関係に「四つ辻」ということば自体が差別語だ、だから使ってはいけないという認識が刷り込まれてしまうからだ。それがなぜ差別語なのかということを考えない人が多いことは、今まで挙げてきたいくつかの実例からもお分かりいただけるだろう……』
 ということで、西尾秀和氏のいう通りなのだが、あまりにも用心しすぎる自主規制する側が、この差別語とか差別表現について、まったく知識がないため、残念ながらことばを置きかえれば、何とか逃れられる位の考えしか持っていないというのも事実なのである。
 差別表現の間題は、決してことばを置きかえれぱ解決するということではなく、一つのことばや表現を使う場合は、その必然性や正当性論理をしっかりと把握して表現するよう心がけなければならないのではないか。
 つまり、勝手に新しい差別語を作り上げてしまうことにつながるのだ。何の意味もない言葉が、いきなり差別語になってしまう。例えば、バカバカしいとして済ませてしまった「みつこし」が「三つを越えれば四つになる」、これがもし仲間うちだけで通じる隠語だったとしたらどうなるだろう。「あいつは三越だ」ですべてが理解できることにもなるわけで、何の意味も関わりもない「みつこし」が差別語にされてしまう危険性がある。日頃から勝手に差別語や差別表現をつくらないようにすべきだ。
 最近の陰湿な「いじめ」問題にもかならず、当事者同士にかわからない、「いじめ」のキーワードがあるはずである。
 ある言葉にクラスの仲間が微妙に反応したら、教師やその友達はよくその言葉の使われ方に注意する必要があるのではないか。
 長期に渡る「いじめ」が見抜けない今の学校教育にも問題はあるが、子を持つ親も日頃からのコミュニケーションを通じて子が話す言葉に、「いじめ」につながるような言葉の変化をつかみとって欲しいものである。