都合の良いものばかり表に出すな(真実を書くように)「T」

 

本では書けない本当の話をしたいと思います。 私の家は代々お寺でした、「親父の代に(戦争なぞで)辞めてしまいました」
でも過去は消すことが出来ないのです、田舎では家の自慢、家柄等の話をすると(差別に取られてしまいます)だから良い家柄の人はそんな話はしません。
又親から言ってはいけないと言われていますから(お寺は身分の高い武士しか出来ませんでした)。県の歴史資料によると(戦後、県の職員が家の資料を貸して下さいと言って持って行き、未だに返しに来ない)我が家の事を今の高知県土佐市宇佐町宇佐の地にて「南無妙法連華経」の立派な石碑が名を残す、

土佐藩三豪商は1.田村屋2.才谷屋3.浅井屋
田村屋は今現代11代目川崎源衛門が元気に存命であります。
才谷屋(坂本竜馬の叔父さんにあたる、竜馬の父親のお兄さんが継いでいる)は屋号だけが残り只一人(と世間で言われている人は)存命の方は北海道にいらっしゃいます。
浅井屋は潰れてしまいました。
何故我が家に「竜馬の記述の過去帳」が在ったかと言うと、約三百年程前に川崎家が(3代目川崎源衛門家が我が家深尾南家」)より養子を向かい入れた(深尾・南家三男を)それからは、南家と川崎家は親戚付き合いが始まった。
七代目川崎源衛門と南家と坂本家が南家で酒を酌み交わし、次の日川崎源衛門は(酒の勢いで高知城の天守閣に上がって良いと言った言葉を鵜呑みにし)天守閣に上がってしまつた。
其の事を山内の殿様に(密告された)殿様が帰ったその日に川崎源衛門は呼び出され「打ち首」を言い渡された。その理由は「町人の分際で天守閣に上がるとは・・」その知らせを聞いた南家の先祖はすぐさま登城し、殿に対し「町人を上げたのは、私の責任、私が切腹してお詫び申し上げる」と、その結果川崎源衛門は打ち首を免れた。我が祖先に対し(南家)「愛、壱等を命じ七年間の所払いを命じる」とのご沙汰があり、それ以来は今の地にて七年間住み「お帰り下さい」との迎えがあったが「我が法華の道に入る」と言って、今現代石碑のある地にてお寺を開寺され現代に至っている。

 その後坂本家・川崎家は月一回の宇佐寺詣でを行ったと、それは素晴らしい詣でであったそうです。両家の寄付により寺と銅像の建立がなされたと。
その後坂本竜馬が我が家に連れて来られたとの記載あった、我が寺で明治の立役者が顔をそろえていた、坂本竜馬は「我が寺の前で、上士の連中から(雨に下駄を履てる事に文句を言われ「カット」なり脱藩を決意した)」と記載あり。
その後我が寺を経由して坂本竜馬に金子(きんす)を届けたと。
我が寺には山内の殿様も手を出す事が出来なかったと。(深尾家は佐川にある本家を筆頭に東家西家南家北家の五家が山内を支えていた)南家だけは山内家の血が入っていない。後の四家は血縁関係にあった、だから我が家を最後まで恐れていたと、

 又坂本竜馬の実家は土佐藩の武士の中では(商人で郷士の株を買った)郷士という低い家柄の出で、本家の才谷家から農地その他の財産を分与され、恵まれた環境で育った、農地を貸して小作料を取った「金子」(きんす)で江戸に剣術修行に出ている(剣術と言っているが、薙刀である)
 又世間では勝海舟と出会った本当の場所を公表してない(品川の遊郭)で知り合い弟子になっている、その前に越前藩主松平慶永の紹介状で海舟を紹介されている。

 桂小五郎も同じく遊郭で知り合い(全ての人達と遊郭で知り合っている)土佐から持ってきた金で豪快に遊んだ、(我が住職が龍馬に何度も大切な金だから「小作人から無理やり取り上げた金子だ」大事に使うように言ったと聞いている)全然聞き入れなかったと。 その後京都で襲撃されお竜さんと二人で薩摩に療養に行っている。「ピストルは高杉晋作・から頂いたが 口が小さく音が小さい為、少々左肩・左手親指と人差し指の根元を・右手親指の根元に傷を負ったと」の文面。
 坂本龍馬の手紙で幕府の大目付が薩長間の往来をしている、龍馬を 徳川の為にならない「確実に殺せ」との指令が伏見奉行所に出ていたとなっているが、幕府が坂本龍馬一浪人に対し「殺害せよ」と指令を出 す訳がない、幕府が薩長同盟の凍結を知ったのはずーと後のことである。
何故なら一脱藩浪人が同盟凍結に関与できるなぞとは夢にも思っていな かった筈である、「ただ同席したから裏書にサインをしている」のであります。
 現に坂本龍馬が朱筆で裏書にサインした物が残っている、ただ後で西郷 や薩摩が同盟なぞは無かったと言わないように、内容に間違いがないことを、龍馬に保証させた。(家の住職曰く、当時の龍馬は脱藩していて只の浪人いくら顔が広いからといっても龍馬の裏書に何の意味があったろうと)代々我が家では其の事を不思議がっている。
 それから二度目の近江屋の襲撃は前回の寺田屋(薩摩藩士と名乗り・土佐 弁丸出しの龍馬を取りあえずは捕虜しようとするのは当たり前・其の時短銃を 使用し反撃し何人も殺害し重症負わせる)の襲撃をしたメンバーが殺害されたり重症を負ったりした恨みから襲撃されたと聞いている。

 拳銃は寺田屋の事件の時に無くしている、その短銃を.watanabeyukio.comの ホームページでさがしています。



 それから話は変わり、世間は坂本龍馬の「お龍さん」が土佐に来て 「才谷屋でお世話になり、居づらくなり(大喧嘩の末京に行ったと言ってい るが」その通りで大体の話はあっているが、だが一つ抜けているのは、我が 寺に来て全てを住職に相談し「身の回りの全ての物をお預かりしたと、何時 も宇佐の海岸を寂しそうに散歩していたと」聞きます、詳しい手紙等の写しは県にあり「返せ」と言ってあります。 高知に観光と考えているのであるなら「表に出せないのなら」最初から 持っていかない事。

 明治に入り深尾家は全て潰れ今高知に住んで居るのは我が家だけであります。
 本家は横浜に家を構え細々と生活しています。(先代から本家はクリスチャンを信仰しています)本家曰く、明治の時代に「佐川の本家」は当時衆議院議員田中光顕氏に本家の全財産を出し{伯爵を貰ってくれる}という約束でいたのに、「お金」だけ取られ{伯爵}をもらう事が出来なかった、土佐市宇佐のお寺に「泣き言」をいいに来られたと聞いている。
 我が寺の住職より「千手観音」の言葉を教えられたと、「手が千あっても口は一つだ」欲張った考えを持っていると{全てを失う}と、一晩泊まり寂しい背を後にしたと聞いている。
 
 それ以来佐川本家は高知県から出て行った。出ていく時に「色々な物をお預かりした」と聞いている。
 我が家(南家)は市内お城の東側に「ひろめ市場」と言う名称で残っています。
 ここの地は我が血筋を引いた人間が、住んでいない為に明治の時代より、揉め事がたえない地になっています。この地は昭和、平成と色々揉めている為、親が買ってやったらどうかと言われ、買いに行ったら「その持っている会社が倒産した」今は県会議員の会社が「小細工をして」持っている、その県会議員に「あの土地は我が一族以外が持つと・・・」と言ってある、もうすぐ手に入ると思います。
 
 明治の最後は深尾重行が(土陽新聞高知新聞の全身に)名前を連ねるのを最後に全てから消えた。


 当時土陽新聞(深尾重行氏)が横浜に嫁いだお龍さんの所に会いに行き、土陽新聞の取材を受けている。その時の紹介者はわが寺の住職からであり(寺にある龍馬とのやり取りの手紙を見せてほしいとの依頼であったが)住職はいくら血縁関係にある深尾家の頼みであっても、私の一存ではいかないと言い横浜から来ていた手紙をみせて(姓は西村になっている)お龍さんの了解をとるように言ったと聞く。
 そこでお龍さんとの取材で「龍馬の手紙を見せて貰えないか」と頼むと、「住職は何と言われたの」とお龍さんから逆に聞かれた、住職は「全てはお龍さんに聞くようにとの事です」と言うと、お龍さんは「全ての手紙その他の物は宇佐の海岸で燃やしてしまった」との返事でした。
 土佐に帰り住職に経過報告をした、住職は「お龍さんが燃やして無いものは何処にもないだろう」とのことでした。
 世間では全ての手紙等は燃やして処分したとなっているが・・・
 最後に龍馬愛用の短刀を我が家でお預かりしている「来國次」名である、それは素晴らしい「刀」である。