今から十五年前に山内豊秋氏(山内十八代当主)から連絡あり会って話を聞くと山内家の借財は二十億円あり高知県の山内宝物館その他全てを二十億円で買って貰えないかとの話でした。 その場に十九代豊功(とよこと)が同席し話を聞いていた。「私は直ぐにいいですよ」と返事をしますと「びっくりした顔で」私を見ていた。私は「ただ、高知県の方に一応売却すると言う事を、話をしておいたら如何ですか」と言い品川区の山内家を後にした。 それから高知県に帰ったら私が山内家の宝物館を買うとの話が広まり皆、知人達から電話やら訪問やらで大変でした。 何故私が山内家の宝物館を買うかと言うと、親父の意向であり(古くは岩崎弥太郎の怨念でもあると)前に述べた安芸の岩崎家は一番下(げ)のクラスにあり土佐藩重役・吉田東洋に認められた(ソロバン・金銭にたけていた・と言うが・・・)「開成館―大坂商会―九十九商会―三川商会―三菱商会」三菱財閥の原型が出来た。 先祖の言い伝えによると三菱の元の金子は(坂本龍馬と後藤象二郎は紀州藩との調停役に薩摩藩士五代友厚を入れ紀州藩より八万三千両を海援隊に支払わせる)その金子は龍馬が死んだ事により後藤、岩崎両名により土佐藩の管理する商社を経て、三菱、後藤の経営する炭鉱へと流れて行った。其の事が今でも受け継がれていて、当時の「三菱銀行の頭取は岸氏」親父が「三菱」に行き話しをするようにとの事であったので、三菱銀行本店に連絡し「岸氏」直々に連絡をもらった。 本店で話をする事になり約束にお伺いした。親父の言っていた意味が本店に行って良く分かった。(親父は岩崎家の事を「おかめ、ひょっとこ」)と言っていた。三菱銀行本店頭取室入り口に縦約2メートル横約4メートルの「おかめ」の面が飾られていた。私はその面を見て「びっくり」しました。親父の話では岩崎家は下(げ)のクラスに下げられ、それ以来(「おかめ」の顔をして心の中では泣いていると・三菱では「おかめ」のように笑顔で接客するようにとの話)・・・「何時か見ておれ」との事であったと、聞いています。頭取室で「岸氏」と話をして山内家の古今和歌集(国宝級)だけを二十億で買って貰う事になった、後の宝物館その他は私が頂くという事で話が決まり、山内家の連絡待ちでした。 すると高知県は山内家の宝物を「渡邉」が買うと、県の宝物を県外に持っていくから、何としても県に留めないと大変なことになる、県議会にはかり十億で買う事に決定したと、山内家より連絡あり、私は「分かりました、県がお買いになるんですね」と返事をしたら、山内豊秋氏が家の方に来て下さいとの事でしたから、私は「お礼でも頂ける」と思い伺ったら、たいそうな出迎えを山内家の玄関で受けた、「あれ、ちょっと違うなと、思いながら中に」入ると、案の定、豊秋氏は私に虫のいい話を頼みたいみたいでしたから、「はあ、と」一応言い、とぼけようと思い返事をしたのですが、山内家は本当に必死な感じがしました。 豊秋氏は「君にしか頼む人が居ないどうしてもやって貰えないか」と、「君に二十億円で買ってくれと話をし、途中から県に買って貰うことになって申し訳ない」と思っている。豊秋氏は「県は十億円、借財は二十億円何とか十億円で解決して貰えないか」との依頼でした。 それは「損切」をしろとの仰せですかと、言うと、豊秋氏は「黙ったまま、頷き」目には涙を貯めて私をじっと見ていました。私は今まで「調子のいい人間だな」と思っていましたが、何か「スートした気持ちになり、してやったり」と思い「分かりました」と言い、山内家の玄関で「話が分かったのですからね、やるとは言ってませんよ」と言い帰って来ました。 親と話をし、「三菱銀行岸氏」とも話をし、結論は「今までの我がグループの怨念全て終わったと」高知に帰りご先祖様の墓参りで近情報告をさして頂き「怨念全て晴らしたと」。 山内家の借財が全て解決するまで約一年半係り、残ったお金は二億三千万円、当然残ったお金は約束では私が頂く事になっている。契約書の銀行口座にお金を振り込んで下さいと連絡したら、豊秋氏は「会って話したいので、私の事務所がある新宿に御伺いします」との事で、事務所でお話をお聞きしました。 話の内容は「今あるお金を戴けないだろうか」との話でした、さすがに私も「カチン」と来て、言いたい事があるんだけど、黙ったまま豊秋氏の話を聞いていた、「知っての通り、品川の邸宅しか残っていない、このままだと子供の代に品川の家も無くなるだろう、働く事を私は教えてないから」と話された。 私はすかさず「それが私と何の関係が有るのですか」と聞くと、「無い、けど武士の情けで何とか助けて貰えないか」と頼まれた。私は、はっきり「それは出来ません」と言いお帰り願った。次の日も又次の日も四日続けて事務所に来られた、私は頭にきたので「何度来られても同じこと、約束のお金は振り込んで下さい」と言いお帰り頂いた。 前のメンバーに相談したら「ふざけてる」と同じ考えでした、ある方は「どうぞ、止め(とどめ)をお願いします(山内家をつぶしてください)」と言われた。 最後は「岸氏が中に入り三人で話をしました」結論は岸氏の一言「彼は本当に困っている、何とか他の方法で勘弁してやれないか」私は「二億三千万円ですよ、それはいくら言われても」岸氏は豊秋氏に対しこれで山内家は終わり歴史から消える事になりましたね、「次のお子さんにはもう十九代目は名乗らせないことですよ」とはっきり言われた、すると豊秋氏は「分かりました、決して名乗らせません」と言われ、その場は散会しました。条件の「十九代目を名乗らないと言う事」は約束した。 2008年より高知のTVコマーシャル、土佐鶴の酒のコマーシャルに十九代山内豊功という内容で出演している。どういうことだ! でも未だにお金が振り込まれて来ないけど、「早く振り込んできて下さい、山内豊功(とよこと)さん」「お父さんの豊秋氏はもうお亡くなりになりましたが、契約書は在りますよ」。
一昨年高知の新聞に(深尾重行の子孫が来高座談会を行う)広告が掲載され、見に行くと山内豊功十九代目と南家・深尾重行の見出しであり、少し頭に気ながらも山内さんに挨拶に行くと「びっくりした顔をされ」挨拶をされた。 深尾氏の方と話をしたら「何処の家ですか」と聞くと「南家」との事、証拠はと聞くと「家系図」がありますとの事なので、見せて頂くと綺麗に書いてある「家系図」であります。 誰がおつくりになりましたかと聞くと「叔父さんがつくった」との事です、私は思わず「何っ」と大声を出してしまいました。何処の家に「その家の家系図を叔父さんがつくるかと」そんな話を聞いたことが無い、「家系図」は代々その家に伝わる物、近年につくるものではないと、声を荒げてしまいました。山内豊功さんも困った顔をされ私に「どうしましょう」と言って来られた、私は「とりあえず、今日は会場に人が来ていますから、お話になったら如何ですか」と言いその場から立ち去った。話が終わって深尾(南家)と名乗る方に話を聞くと、最近叔父さんが家系図をつくられたと、申し訳ないが家系図は下から上に上げるものでは無い、代々上から下に書くから家系図というのですよ、と言ったら、もう高知には来ないとの事でした、当たり前の話をしたまでの事です、「偽者は・・・」高知新聞には掲載を止めるとの連絡あり、私は「どちらでも、どうぞ」と言いました。家柄なぞに拘る人間がまだ居るのですね。 ただ言いたいのは坂本龍馬が死んで一番得をしたのは岩崎弥太郎・後藤象二郎であることだけは間違いない、司馬遼太郎が書いた「竜馬がゆく」は大政奉還を平和的委譲とし、倒幕派と幕府の全面対決を回避するのが坂本龍馬であると描いている、が幕府に対し海援隊の同志を率いて(数百人)今の役人を打ち殺すと言っている(坂本竜馬はこのように言っている)、後藤象二郎には大政奉還が実現しないなら「ライフル銃で武装した海援隊で」徳川慶喜を襲撃するとの決意を述べた。(坂本竜馬はこういう考えを持っていた) 司馬遼太郎は竜馬を美化しすぎている。本当の竜馬を描くべきではないか。 龍馬の役人嫌いは並大抵のものではなかった(土佐藩上士・京都の役人・幕府の役人)血筋だけで威張り散らす役人を本当に嫌っていたと聞いている。真実を知るべきです。