リーダーシップH(心休まる地は何処か)

遺骨は持ち帰り横浜の墓地に埋葬しましたと、言いますから、私は「分骨して、高知に持って行き、住職の所に」と、言いましたら、是非お願いしますと言いますから、お持ちしました。

宇佐の海岸は綺麗ですね、本当に「心が洗われる」気がしました、祖父と父親が言った通りでした。

戦争中祖父が亡くなる時に、周りの人間に「もう一度高知に行きたい、土佐の海を見たい」と、言って息を引きとったと父親が言います。

又父親も亡くなる時に、高知の地にもう一度行き、住職と酒を飲み、くだんの話をして昔を懐かしみたかったと、言っていました。

住職には、よく叱られたと、いつも食事の時に話をしていました、余程住職が好きだったんですね。

住職とは一度だけお会いしたんですと、娘さんは言います。

戦争が始まり間もない頃に、住職が横浜に来られ、台湾に疎開するから「一緒に来ないかと」横浜の自宅にわざわざ訪ねて来て下さったと、言います。

その時は、母親が体調が悪く動ける身体ではなかったから、丁重にお断りしたと、その事を残念がってずっと言っていました。

母親が「お父さん、皆んなで行こう」と、言ったんですが、父親は母親の体力の限界を知っていたから、次回にしようと、「お前が元気になってから行こう」と、言ったみたいです。

母親はそれから間もなく亡くなったんです、父親は相当ショックだったみたいで、暫く動く事が出来ませんでした。

母親が亡くなる時「お父さん、住職の所に皆んなで行きたいね」と、言って息を引き取ったんです。

母親はこんな事を言っていました、高知の住職から「添え遂げて、仕合わせかどうかは、最後で分かる」と、言われたと、言います。

母はいつも住職の言葉は有難いと、言っていた事を覚えています。

戦時中に亡くなる時、食べ物も無い時代に「母は、お父さんには感謝している」と、出ない声で「心から叫んで」いた。

余程父親の行為が有り難かったんだと、思いました。

私に母親はこんな事言ったんです「お父さんと添え遂げて、本当に仕合わせでした」と、涙を流しながら、私達娘2人の手を取って言ったんです。

最後に出ない声を振り絞って「高知の住職にお会いしたら『仕合わせでした』」と、話してくれると、話された。

横で父親は泣きながら「うん、うん、うん」と、頷き母親の手を握り、母親の顔をマジマジ見つめていました。

葬儀が終わり、母親の遺骨を高知の住職にお願いしたいと、私達娘2人に言いますから、姉は「勿論」

ですよと、言いましたら、父は「お母さんも成仏できる」と、喜んでいました。

何故、高知を好むのか聞きましたら、竜馬が住職を好み本堂で休むと「常に熟睡した」と、聞き及び。

何故、熟睡できるのか父親が「心休まる場所」であると、娘達に言われたと言います。

その先先代の住職「妙照」で開寺「妙英」は尼さんであったので、色々話しやすかったんでしょうね。

況してや、代々、竜馬の本家(才谷屋)が出入りしていたから、何かあれば相談しろと言われていたみたいです、本当に住職を信頼していたと言います、そうでないと、日々寝れなかったんですからね。

何かあれば「家の本堂」で、休息していたと、住職の話で代々の言い伝えです。

土佐に頻繁に軍艦が来た時は、良く来て本堂で休息していたと言います、他で寝ていたら命を狙われるからです、熟睡した日々を過ごした事が、ここ暫くは無いとの話であった。

父はそんな「心の休まる地にて」夫婦仲良く休みたいんですね。

私達娘も高知で「休ませて頂きたい」と、考えていますが、無理ですかと、聞かれたが。

答えようが無い、真逆「はい、どうぞ」とも言えないし、困っていました。

白髪の叔父さんが、私に対して「宗教法人『深尾會』」をお持ちだから是非お願いしたいと。

前回も書きました、坂本竜馬の事は先先代の住職から過去帳を見て聞き、連載した方がいたんです。

家の家系に名を残す、深尾重行(高知新聞の前は土陽新聞の初代役員に名を刻む)からの頼みで過去帳をお見せし土陽新聞に掲載した事が過去帳に記載あり。(高知のひろめ市場の場所に明治時代迄)