リーダーシップD

先代は仲が良かったけれど、今はね・・・、今は2009年学校建設にあたり、色々利権が絡んだんです

、だから色々揉めたんです、その時私に仲裁に入って欲しいと言ってきました。

川崎家の本家は「ナベ止めとけ、自分達でいい思いして、我々を蚊帳の外にしておいて今更仲裁に」入ってくれはないだろうと、本家は言います、余程、腹に据え兼ねた事が本家にはあるんだね。

家の住職に話をしたら「やってやれ」と、言われたので仲裁に入りました。

宇田家の耕也さん(宇田友四郎とは血縁関係はない、父親耕一は養子である・旧姓は六田)とお会いして話をしたら、川崎幾三郎とはもう会って話をしても仕方がないので、君に全てを任すから、やりたいようにやってくれと言われ、耕也さんから一筆とり川崎幾三郎とお会いして話をした、川崎幾三郎も私に全てを任すと、一筆くれて話が円満についた。

双方が学校の全てから退任するという事で、話をつけた、次の日の新聞紙上に掲載された。

いい形での退任であったと、周りから言われた、一番喜んだのは本家の川崎家でしたね。

昔から本家を外して学校を牛耳っていましたからね、分家とは全然付き合いがなかったと、言っていました。

いつの世も我が家のモノが仲裁に入るんだと、住職は笑いながら言っていました。

 

 

設立当時に、土佐藩の山内家から今でいう「クレーム」がついたんです、「土佐」とは何だとね。

当時の創設者は困って、家の住職に相談に来たのです、まだ山内家に力がある時であったからです。

当然、家の住職は創設者を引き連れて、山内家に赴き「我が家で『土佐』と命名」したと話したら、山内家は、家の住職に気を使い、何事もなく済んだと聞きます。

それ以来、創設者は家の住職に創設者に名前を連ねて下さいと、念願されたが、家の住職は「そんなものはいい」と断り、当時から創設者の一人として何かあれば、相談に乗ってやったと書かれている。

住職は二人に対し、いい事と悪い事がある、それはいい事だとワシが決める事ではないが、いい事か悪い事かは天のみぞ知る、それは今やっている事の話で、何でもかんでも手を出してやるでないと、住職は二人を否めたと言われた、それから直ぐ2代目川崎幾三郎は亡くなられたと、言っていました。

 

今の世でも又その人間がご先祖様を大切にしないのである、だから私は川崎幾三郎に話に行きました。

親父が居なく息子の康が出てきたから、ハッキリ言った「自分のご先祖様を蔑ろにするのか」と、ね。

それから、何ヶ月かして「康」が、お寺さんが来てから「自分の体調が悪く」なったと、知り合いに言われた、それを聞いて私は言いましたよ。

「康」は家長だから話をしたと、又ご先祖様を大切にしないから、「ちゃんとせんといかんぜよ」と、言っただけだと。

我が家はいう権利があるんです、川崎家の子孫が途絶えたので、深尾家から三男坊が養子に言ったのである、だから、酒を飲んでいる席で天守閣に上がりたいと大層なお願いをされたのである。

一番大切な事は、人の悪口をいう人間は早死にするよと、言ったら半年後に「康」は亡くなりました。

私のせいか、そうじゃあ無いでしょう、徐々に徐々に「バチ」があたったんですよ。

又、その後を追うように「父親の幾三郎」も亡くなりました、何か後味が悪いですね、私は教えてあげただけですからね。

皆、人のせいにするんです、いいですか、全て自分の責任なんです、決して人のせいにはしない様。

どんなに会社が大きくなろうが、どんなにお金を儲けようが、基本を(筋道を立て・仁義を全うし)

忘れたら、必ずしっぺ返しがあるという事を、忘れないようにしないといけないです。

今の時代でなく、次の時代かも分からないですが、必ず・・・。

今は媚を売ってその会社に勤めているだろうが、家の住職はいかんでいい(その会社に勤めるな)と、誰も身内の人間は勤めてないです。

我が家「深尾家・南家」は代々そういう家系なんでしょうね。