リーダーシップ(自分を生かすも自分次第)A

前回からの続きです。

鉄砲鍛冶職人が一人優れた人間がいたので、今でいうリーダーである、その人間に「美濃国から来た鉄砲鍛冶職人・・平」という長々しい呼び方でなく、簡単な呼び名を付けてやったと、記載があった。

その名前が「美濃国の・・」が訛ってミロクになったと、その弥勒の漢字は我が家の近くに「イボの神様・弥勒菩薩」があり、その訛った美濃国をそのまま「弥勒・ミロク」に擬えてそれから名前を書いてやって今があるのであると、言います。

そんな事など、微塵も出さないで今日があるとタカを括っているのである。

以上の名前の「漢字」など、書ける筈がないのである、皆さん書けますか。

今は知らん顔しています、家のお寺には来ないのである、今があるのは誰のおかげだと、・・・。

高知で聞くと如何にも何処其処の由来の如く話をしているが、ちゃんと知っている人間もいるのである、いい加減な事を発すると、今回のようにホームページに記載することになるよ。

明治の初め、家の住職が鉄砲足軽職人を呼び集め「次の世代を育てる算段をしてあげた」その事を何故取り上げないのか、取り上げて取り上げて、そのお陰で今日の「ミロク」がありますと、何故言えないのか、可笑しな話である。 

その時の鉄砲足軽職人を呼び集めたのは、土佐の三豪である(川崎・才谷屋『坂本龍馬の本家』・臼井)ここまで名前を出せば家の住職が家から誰に「金子・きんす・お金」を送ったか分かるでしょう。

 

 

其処で、我が家は「深尾家」という家系であり、今の高知の「ひろめ市場」の土地が代々生活した場所であると過去帳に記載されていました、我が家の人間の家長は今でも「名前に・人」を付けている。

最後にその土地で生活されたのが「重行」であり、明治時代までその地で生活されていた。

我が家の長男は土佐藩の殿様の逆鱗に触れ、仁淀川より西に7年間の流罪であったと記載があります。

何故か、それは、全てを書くと嫌な人もいるだろうから、敢えて匿名で書きます。

我が家で土佐の三豪が集まり酒を飲んでいた、その一人が天守閣に上がりたいと言うと、酒の勢いで我が家の人間が「いいとも」と、言って、天守閣に上げたと、丁度殿様が安芸に狩りに行かれて留守であったから、簡単に上がれたと、当時はそれ也の地位であったから出来たんだろうと、言います。

殿様がお帰りになり「藤家」より、今で言う「チクリ」であり、南家の方が町人を引き連れ天守閣に登らせたと、この行為は国賊(今で言うスパイである)であると話された為に、即刻呼び出され町人3人は「打首」と、殿様から命じられたという。

慌てた、家の人間は直ぐに登城し「南家の責任である為、拙者が切腹する」と言われたが、殿様は5家(佐川本家・東家・南家・西家・北家)を敵に回すことになるので、それを避けるために、南家の当事者だけを仁淀川から西に7年間の流罪というかたちで、処分し早々と言い渡されたとの事です。

7年経って放免になり三豪が迎えに来られたが、この地で法華の道に入るといい、帰還しなかったと。

それ以来、今の地に住んでいると言われます。

家の人間一人が責任を取り「三豪」は助かったのです、でもその後は月に一回は三豪が揃い、家の人間の所に集い、凄い産物を持参していたと記載あり、又、法華の道に入って全ては三豪からの産物で賄えたと、一つに凄い仏堂を寄贈されたと記載があります。

7年間の謹慎の間に、殿様は狩の名目や釣りに南家の人間に会いに来られたと記載があります。

当時としたら相当南家に対し、気を使われたんでしょう、やはり一番怖いのは佐川一万石深尾本家ですからね。

南家にだけ山内の血が入っていなかったですからね、後の4家は全て山内との政略結婚でしたからね。

南家の当主は豪快な当主であったと言われています、代々その豪快さは受け継がれているんですね、家の住職も母親曰く「豪快・強引・素晴らしい」人であったと、言います。

昭和・平成になり山内家の事で色々問題があり、南家の私に頼って来ましたからね、後日書きます。

今は全く付き合いは無くなりましたけどね、三豪の一つの家の人間は北海道に全てを持って引っ越して行かれました、その末裔が東京の新宿の私の事務所に来られ、ピストルを探して下さいと。