リーダーシップ(真実を知る人間が・・・)A


また、以下の事が同じく掲載されていました。前回からの続きです(同じインターネットにです)

815日、玉音放送が流れた。

雑音でほとんど聞き取れませんでした。

ですが、その日の夕方頃、人づてに『終戦』と聞きました。

負けたということでしたが、故郷の北海道は戦場にならなかったし、ホッとした部分もありました 

16日、伊藤中隊長から「今日1日はゆっくり休め。明日以降はいつ米軍が来ても武装解除に応じられるよう、戦車の中まできれいにするように」との指示が出された。

「自分の銃を敵に渡す時、もしその銃が汚れていたら、敵兵に『ああ、こんな軍だから負けたんだ』と思われるかもしれない。

そうなったら恥でしょう。

ですからきれいに磨いて渡そうと思いました」  しかし17日の夜、状況は一変した。島の北部が不意の砲撃に晒されたのである。

終戦後にもかかわらず、ソ連が奇襲を開始したのだった。

18日午前1時過ぎには、ソ連軍の海軍歩兵大隊などが占守島北端の竹田浜に殺到。陸軍の狙撃連隊などがこれに続き、ソ連軍の兵力は延べ約9000人に及んだ。

浜一帯は激しい地上戦の舞台と化した。  

ソ連軍侵攻の報は、「北の備え」の指揮をとっていた札幌の第五方面軍司令部にもすぐに送られた。

この時、第五方面軍の司令官だったのが樋口季一郎(きいちろう)中将である。

樋口は満洲のハルビン特務機関長だった昭和131938)年3月、ナチスドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民に特別ビザを出すよう奔走して救出した経歴を持つ。

日本人には「ユダヤ人皆んなが心から感謝している」と、言われました、杉原千畝さんと樋口季一郎(きいちろう)中将の6000人のビザの事を、代々言い伝えていると、言われていました。

ニューヨーク州の証券協会会長・グリーンパーク会長もお会いした時、我々ユダヤ人が今日あるのは、樋口季一郎中将・杉原千畝先生のお陰であると、言われました。このホームnに記載してある。

そんな「知られざる名将」である樋口は、ソ連軍の侵攻に対する戦いを「自衛戦争」と断定した。

実は樋口は若い頃から「対ソ戦」を専門とする情報将校だった。

樋口はソ連の南下政策と野望について充分に研究していたのである。樋口はこう現地に打電した。「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」ソ連軍の侵攻を占守島で阻止しなければならない。

もしここで跳ね返さなければ、ソ連軍は千島列島を一気に南下し、北海道まで迫るであろう。

樋口はそう分析した。  

樋口の考えは当たっていた。ソ連最高指導者のスターリンは、釧路と留萌(るもい)を結んだ北海道の北半分を占領する計画を有していたのである。

この前の続きで、北海道にロシアの上陸を阻止した、池田末男(いけだ すえお、19001221– 1945818日)下士官・樋口季一郎中将・他が居なかったら、北海道は朝鮮半島と同じく二分されたと書かれています。未だに四島取られても返してくれないロシアですからね。

北海道を二分されていたらと思うと、ぞっとしますよ。

何年か前に、サンクトペテルブルグに相撲の世界大会で行った時に、手伝ってくれた女子大生と記念に写真を撮ったら、こんな写真ですよ「親から言われているのかね」変顔や舌を出していますよ。

嫌なら撮らなければいいのにね、私が撮ろうと言った訳では無いのに。

ロシア人は皆んなが皆んなではないだろうにね。

ロシアの北海道二分の計画図を掲載します。見るたびにぞっとします。

何故こんな話をするのかです。

自分の意志で、国を日本人を守ると決めたら、最後まで守り通す事が「やる」と言う事だと思います。次回に期待して下さい