リーダーシップ1(ねたましく思う事が・・・)


学生時代の事です、当時相撲界のプリンスと言われていたのが、初代貴乃花です、私は当時大学一年の時でしたね。

今みたいに携帯電話の無い時代でしたから、連絡を取るのが大変な時代でした、家庭電話もあるか無いかの時代でしたからね。

その時代に、たまたま阿佐ヶ谷の花籠部屋に荒瀬氏を訪ねて行った時に、荒瀬氏から会ったと同時に「お前、車の運転免許」持っていたよなと、言われて「持っているけど、なんでや」と、言った事を覚えています。

その時「相撲界のプリンス・貴乃花関」の運転手を探していたけど、訳の分からない人間はダメだと、後援会の人が周りに話をしていた時に、私が部屋に行ったんです。

 

後援会の人は、荒瀬氏に対し「彼に頼もう」と、それだけ言って帰ったみたい。

私は訳も分からず、貴乃花関と会って「明日から宜しく」と、言われ「はい、宜しくお願いします」と、言って荒瀬氏とその稽古場を離れた。

部屋のちゃんこを食べている時に、若い衆から「よかったですね」と、言われた。

 

荒瀬氏に聞きました「何の話や」とね。

荒瀬氏は「貴乃花関の運転手をやってやれ」と。

後援会の人が「お前に頼む」と、決めて帰ったから、明日からやる事になったと、荒瀬氏は言います。

 

私は「まぁいいけど」まさか、学生服で運転手は出来ないし、どうしたらいいか考えていたら。

二子山部屋の貴乃花の若い衆が二人来て、ちょっと来てくれと阿佐ヶ谷駅の洋服屋に連れて行かれた。

ワイシャツやら、スーツやら、ネクタイやら、靴やら色々買ってくれた。

 

明日からお願いしますと「封筒」を頂き、荒瀬氏の所に帰った、封筒を開けると3万円(千円札が30枚・当時大卒の初任給が15千円の時代でした)入っていた。

 

荒瀬氏は私の顔を見て、笑っていた、良かったなと、言わんばかりの「笑顔」でした。

運転手を始める前の晩に、近くの学校で、車(アメリカ製・シボレー)を運転して練習しました。

 

それから、毎朝「二子山部屋」に迎えに行き、夜は遅くまで後援会周りやら、挨拶回りが大変でした。

貴乃花関は、車ではいつも寝ていましたね、起きて雑談している事は無かったですね。

当時は「大スター」でしたからね、スケジュールは全て私がやっていましたから。

 

後援会やら、タニマチやらは、私に連れて来て欲しいから、いつも私に小遣い銭をくれました、結構大きなお金になりました。

 

こういう事が過去に有ったから、彼がこの世の最後(後どれ位、生きられるか)を分かった時に、呼ばれて話をしました。

 

その前に新聞紙上に掲載の文を読んでください。

名大関として歴代1位の在位50場所を記録、引退後も2人の息子を揃って横綱に育てあげるという離れ業を演じた親方、角界のプリンスとして絶大なる人気を誇った現役時代の全盛期。

 

 

小さい身体で、どんな大きな相手に対しても真っ向勝負の土俵魂。

クールな顔の裏に秘めた不屈の闘志は「決してあきらめない相撲」で示された。

 

輪島や北の湖との死闘以上に記憶に残るのは、北の富士を弓ぞりから投げ「つき手・かばい手」論争を起こした取組や、高見山との土俵際での投げの打ち合いで顔から土俵にのめり込んでいった取組。

その強靭な足腰を最大限に活かしての驚異的な粘りは、常識では計れない数々の衝撃をファンに与え続けた。


二代目・二子山親方が最後にファンの前に姿を現したのは、130日両国国技館で行われた大関貴ノ浪の断髪式のときだった。

「なんとしてもマゲにハサミを入れてやりたい」自ら足を運んでスカウトした弟子だけに思い入れは深かったようで、周囲の反対を振り切って病室から国技館に駆け付けた二子山親方。

 

しかし、薬のせいで顔は土気色で大きく腫れあがり、足元は覚束なく、土俵に上がるのも呼び出しの肩を借りてやっとの状態。それでもしっかりとマゲを切り、貴ノ浪を大泣きさせた。

530日午後540分、東京都内の病院で永眠した。まだ55歳だった。

 

 

 

次回に続きます。