リーダーシップ(本当の話をするよ)日本相撲協会の前理事長で元大関魁傑の西森輝門(にしもり・てるゆき)氏が18日、急死した。66歳だった。「クリーン魁傑」と呼ばれ、現役時代は生真面目に土俵を務めたが、理事長在任中の2011年2月に「八百長問題」が発覚。本場所の中止と力士らの大量追放という大ナタを振るった。その後も八百長の再発防止や新公益法人移行へ向けて数々の改革に着手したものの、保守的な角界内での支持は広がらなかった。前理事長が角界にもたらした“功罪”とは――。
西森氏は東京近郊でゴルフの練習中に気分が悪くなって救急車で運ばれ、都内の病院で午後3時すぎに死亡が確認された。死因は不明。
現役時代は花籠部屋の力士として活躍し、幕内優勝は2度。1975年春場所で大関に昇進し、一度は転落しながら返り咲いた。937回出場で休場はゼロ。「休場は試合放棄」の名セリフを残し、生真面目で頑固な性格から「クリーン魁傑」の愛称で親しまれた。
79年初場所で引退後は年寄「放駒」を襲名。親方として横綱大乃国(現芝田山親方)らを育てた。2010年8月に相撲協会理事長に就任。翌11年2月に発覚した八百長問題では事態の収拾に尽力した。その後は八百長の再発防止策や公益法人移行へ向けた組織改革に着手し、12年初場所後に理事長を退任。昨年2月に定年退職した。
理事長として西森氏の最大の“功績”は世間を揺るがす八百長問題に厳正に対処したことが挙げられる。問題が発覚すると、3月の春場所中止を決断。特別調査委員会を設置し、20人以上の力士らに対して事実上の追放処分を下した。メールの記録などの「物的証拠」がない力士も処分の対象としたことで、当時は角界内でも「あまりにも厳しすぎる」などと反発も広がった。
ただ、大きな“出血”を伴う再出発をしたことで、結果的に世間に対して「けじめ」を印象づけたことは確か。本場所再開後の観客動員は、どん底に落ち込んだ後に増加に転じた。わずか数人の処分で幕引きを図っていれば、幕内遠藤(23=追手風)に代表される現在の相撲人気の回復につながっていたかどうか。
一方で、西森氏が理事長を退任すると、同氏が手がけてきた「角界改革」は次々と“骨抜き”にされていった。高額での売買が問題視されていた年寄名跡を相撲協会が一括で買い取る案などは、現在の北の湖理事長(61=元横綱)の体制下で“廃案”に。新公益法人で一応は「売買の禁止」をうたっているものの、水面下で売買される余地を残した。
昨年3月に八百長問題で追放した蒼国来(30=荒汐)の解雇不当判決が出ると、協会は控訴を断念。その後の検証で西森氏らを「不十分な調査で解雇処分を下した」と結論づけた。また、八百長の再発防止策の一環として始まった親方衆による支度部屋の監視活動も、3月の春場所からは行われなくなった。西森氏が理事長退任後に一切、口をつぐんでいたのも、こうした一連の動きと無関係ではないだろう。
18日の夏場所8日目、東京・両国国技館は満員札止めとなった。大相撲の信頼回復に尽力した前理事長の急死。今後の角界はどこへ向かうのか。
以上のようにインターネットに放駒親方の事が書かれていました、日本では亡くなった方の事は悪く言わないのが、当たり前なんですが、この親方は普段でも誰もが悪く言わない、それは真面目に相撲界で生きて来られた方だと、誰もが知っているからです。前にこのホームページで書きました「魁傑さん貴方しか出来ない無気力相撲(八百長相撲)を必ず解決(魁傑•かいけつ)」して下さい。と書いてますよね、それは大変嫌な思いをした張本人(魁傑)だからです、現役時代に一生懸命相撲を取って、やっと大関になってほっとしている時に、部屋の古株の相撲取りから「明日陸••関からお願いします」と来ています、申し訳ないけど「断ってくれ」と言って使いを出すと、次の日の支度部屋で直接本人が言って来る、断っても断っても言って来る、最後は脅しとも取れる言い方で。だから今回の八百長問題は「支度部屋に相手の付き人、関係の無い付き人の入室を禁じた」私は1年間魁傑さんの運転兼マネージャーをやったんですよ、現場で聞いたり見たりしたんです。上の文章を良く読んで下さい、大関になれば、陥落はこの時代は無いですよ、何故陥落したと思いますか、八百長やらなかったからなんですよ。魁傑さんの「意地」がここの2回の大関にカンバックをさせたんです。相撲新聞記者、相撲関係者は皆そんな「魁傑関」を知っていたんです。弟子の横綱大乃国が現役の時、私の前で放駒親方から「つまらない事するなら、マゲを切れよ」分かったな。この意味分かりますか「八百長するなら辞めろ」と親方が言ったんですよ。だから横綱大乃国(ガチンコ力士)は30歳まで持たないで引退したでしょう。二代目貴乃花も同じくガチンコ力士、ガチンコは皆体力が持たないんでよ。
放駒親方は2010年8月、角界に降って湧いた野球賭博問題で辞任した武蔵川理事長(元横綱・三重ノ海)の後を受け、第11代理事長に就任。在任1年半は歴代最短だったが、その間に取り組んだ問題は、八百長問題、公益法人認定に向けた組織改革など重いものばかりだった。八百長問題が発覚した2011年2月、放駒理事長「(騒動が)全部終わらないと話せない」その時はそうして口をつぐみ、その後何度取材しても同じ言葉を繰り返理事長だったが、処分が発表された後に取材に対し「(真相は)墓場まで持っていく」と言葉を変えたのが印象的だった。そして定年退職後も、「(辞めていった者の気持ちを考えると)オレが口を開くわけにはいかない」と、一貫して沈黙を守り続け、先の言葉通り真相を話さぬまま逝ってしまった。
2012年に行なわれた理事選では、在任中に定年を迎えるため理事には立候補せず、協会員としては昨年1月場所が最後の仕事になった。
65歳の定年となった2月には、自らの放駒部屋を閉鎖、所属力士は愛弟子である元横綱・大乃国の芝田山部屋に移籍させ、静かに協会を去っていった。
「退職前の最後の場所では会見があるのが恒例ですが、放駒親方は記者クラブからの申し入れを断わり、理事長経験者の定年後の天下り先に定着している相撲博物館館長の席も元武蔵川理事長に譲り、NHKから提示された特別解説者の依頼まで固辞。とにかく、角界から綺麗さっぱり身を引きました。
これは自分が辞めさせた力士や親方に申し訳ないというのが理由だったようです。最後まで苦労に苦労を重ねた、ガチンコ大関の放駒理事長でなければ、角界史上最大の危機は乗り越えられなかったはずです」
皆さんどう思います、彼こそが「昔のサムライ」ではないでしょうか。うわべだけの新聞や雑誌や評判ではなく「真実」を見てあげて下さい、葬儀が終わって部屋に訪ねて行きましたら、元女将さんから言われました「理事長はやりたくてやったんではないからね」と、私は「知ってます」と言った後は胸が詰まりました。
このホームページの随分前に書いてあります。読んで下さい。2011年2月15日啓発(だから言ったでしょ)掲載
我が家の住職が言いました「魁傑:死して末代迄も名を残す」これも人生。
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