心の中は見えない

 人は全てに於いて普通であるという事は大変難しい。人普通に生きていくのには、年齢とその時の精神的な成長が無くてはいけないのです。例えば、心の中にコンプレックスを持っている人は、相手の言葉を認めることが出来ないでいまいつも反論ばかりします。相手の発する言葉に敏感に反応してしまいます相手にはそのつもりがなくても、ついつい責められているように感じてしまい、瞬時に行動してしまうのです。常に悪い方に悪い方に考えてしまいます。まさか自分はめられてはいないと、反対に考えて落ち込んでしまいます。常に自分は貶されるだろうと思い、良い言葉を避けてしまっているのです。それは自分自身を大切思っていないからです、何か言われれば「はい」と言って反論しないのです。それは自分自身を蔑ろにしている証拠です。だから人の言っている事が全てしいと思うのです。自分自身が嫌いだから自分を信用しないのです、もう少し自分を信用すれば周りに合わせる事もないのです。一番大切な事は、自分自身を好きになり、自分の言っている事は「全てしい」と思い込む事です、そうする事で周りの人達に対して自己主張出来るようになるのです。言葉は悪いけれど「自分さえ良ければいいのです」周りの事など気にする事はないのです。少し背伸びをして人生を送るのも良いですね。見た目は大人でも中身は分からないのですから「本当は見た目よりも子供だったり」するのです。周りを見てみれば分かるように、歳より精神年齢が子供だったりしている人がいるでしょう。ようは、心の中は分からないのです、又分からないようにしているのです。最初に言ったように、普通の人間は普通に生きているのであり、何も特別な生き方をいているのではないのです。只、人より良い人生が送りたいとか、金持ちになりたいとか、出世したいとか、周りから認めてもらいたいとか、そんな事を考えている人は、幼少期に問題がある人間が多いです。それは親が仕事で忙しく、全然構ってもらわなかった人間に多く見られます。女性では幼少期に、お菓子を貰った所をその子供が見ていれば、すぐに与えることです。母親から、おやつの時間までお菓子を待たされたりした子供は大人になって必ず相手にお預けをさせる、例えば結婚を前提にお付き合いしている彼氏に「きょう部屋に遊びにおいで」と言われ部屋に入る、当然なるようになるのが世の常でありますが部屋でその大切な彼氏にきょうは、駄目、又今度ね」とお預けをさせるこの行為はとんでもない行為であります、誰が考えても「部屋に入れば・・・」この女性は幼少期の母親の行為が、頭にこびり付いてこの様に彼氏にお預けをさせてしまうのですなるようになる行為が嫌なら部屋には入ってはいけないのです。この態度がこの女性に一生ついて回るのです。ことあるごとに「ちょっと待って」と、又「心の準備が・・・」と、いうふうにお預けをさせるのです。それが自分の子供だったり、旦那だったり、親だったりするのです。ようは親からの愛情が足らなかったのです、だから誰からも愛情を貰い、独り占めにしたいのです。こんな人は「普通に生きられないのです」何故なら「普通に生きてる」と認めれば周りの人から注目してもらえないし、他の人以上に愛情を貰えないと思ってしまっているのです。だから無理をして、虚勢をはり周りから注目してもらい、生き続ける以外生きる事が出来ないのです。普通に生きる事が出来ない人は「自分が嫌いで周りの人達より劣っている」と考えているのです。誰でもあなたは普通ですねという言葉は最高の褒め言葉と思うことです。常に誰かに見ていて貰い、近くで声を掛けて貰いたいのです「い」「素晴らしい」「良くやった」と。そうしないと満足しないのです、だから、いちいち「報告なり」「自慢なり」をしていないと不安なのです。このような人に、家の住職がいつも言っています「今の自分の考えは間違っていないか、行動は間違っていないか神様に聞いてみろ」と、それは己の「に聞け」と言っているのです。又、人は「人の言いなりになるのは簡単だけれど、自分の意志で行動し結果を出すのはしい」です、人の悪口を言うのは簡単だけれど「人をめるのはしい」と教えられた。今私が告発している「テコンドー協会」の事も同じです、私達が普通に働いて、税金をめたそのお金をテコンドー協会の会長、コーチ連中に騙し取られたら「こんなしい」事はないと思います。又テコンドー協会を提訴して私達の収めたお金(真面目に働き、普通に接している人)で裁判費用を払うほど、馬鹿げた事はないと。我が住職が「それはタコが自分のを食う」という事だと言われた。又男とは、心の中を見せないで勝負しろと「勝負とは、居合いの如くを抜く前に勝負有り」と、大人しく普通に物事を行なえば「勝負はの内にあり」と、心を鎮め相手の呼吸を知れと、常に心は目なりと。

いつも自分は何でも、出来る(成功する)と思う事だそうです。心の中は見えていないと思っていたら「に映る姿こそが、己のだと」教えられました。皆さんに気をつけましょう。