前回からの続きです、今自分が置かれている立場や、周囲の人に自分が認められた事で、自分の気持ちが満たされたという嬉しさは、何モノにも変えがたいものだと教えられた。
ここで、注意しないといけない事は、同じように「ほめ」ても、相手の受けとめ方次第では「小馬鹿 」にされた様な気持ちになったと、思われる事もある、だから時と場合を考え、又タイミングを見計らい「褒(ほ)める」ようにしないといけないと、教えられた。

本当の「ほめ」は、相手の事を良くみて、相手の話を良く聞き、心の底から相手の良いところを感じてあげ、相手に対しハッキリと「ほめ」の言葉をいえば誰が聞いても好印象を与えるものだと言う。

相撲の世界もどの世界も同じ、楽をせず、苦しい稽古や勉強を率先してやれば、そうすれば将来自力となり、最高の結果として表れる時が必ず来るとの教えだと、言われました。
相撲の世界の「3年先の稽古」という言葉がどんな場面でも活用され、目先の勝負に拘らず将来を見据えて稽古や勉強をしろという意味が、何処でも生きて来るんだと、いいました。
目先の勝負はもちろん大事である、目先の勝負に お相撲さんは負け続けたら3年先はないという。
それはそうであるが、将来、関取、さらには大関や横綱 を目指す為には他のライバルより「1つ上のレべル」に達する必要があると、言われるんです、それは並大抵の努力ではないと言われます。
その為には、時として「目先の勝負」を度外視する必要がある、それは何が何でも勝つという事と。
相撲の場合、目先の勝負にこだわると言う事は「土俵上で立ち会いを変化したり、引いたり叩いたりして勝つ」ということだと、言いますが、勝ちは勝ちで同じだけれど、勝ち方が問題だと言います。
そういう相撲もたまには仕方がないかもしれないが、そうして「楽をして」勝つことを覚えると、正攻法の相撲が取れなくなる「将来の大関、横綱候補」と言われる力士は結構いるが、なかなかその通りにならない理由は「このあたりにある」ことが多いと、言われた、見る人は見ているんですね。
又大関、横綱になれば当然受けて立つのだから、何処からでも「かかって来い」と、胸を出して胸で受けてあげて、相撲を取るという姿勢が大切だと、ハッキリ言われました。 (初代二子山親方•談)
また「3年先の稽古」というのは、研究の世界にも当てはまるように思われる。
主に対象とするのは博士課程に進学しようと思っている人、及び現役の博士の学生に対して、自分の身体と頭と足と努力と粘り強い精神力を使い、研究発表する様にするべきであると言っている。
また、議論を単純にするために、文法を研究対象とする場合に限定して話しをすると、簡単に楽をして成果を上げるのではなく、敢えて言うなら「回り道をして自分の身につけてから」と言う事です。
それは、自分自身が把握し身体の奥底まで浸透させて、全てに於いて返答できる態勢にするという事
私は前々から言っています、学校を出て直に働くのではなく(親が元気なうちは学校に行くべきだと )若いうちに勉強をして又資格を取っておくように言っています、又最後に学ぶ事は「啓発」です。
啓発とは物事の通りが分かるとある、学ぶと言う事は先き先きにあって困るモノではないからです。
一つに、高校出て「甲子園で優秀な成績を上げて、ドラフトにて選ばれ」そのままプロに行くのではなく、よく周りと相談して、最後は人生の「師匠」に相談して、後悔のない様に「決断」をする事と 、以前書きました。
「善(よ)き人の言(げん)をよく用いること」と、土佐藩の言い伝えだと。

うまくいかない、判断できないという時は、自分の尊敬・信頼している人の助言をよく聞いて、その通りに実行してみることも方法の一つだと、言いますと、常に話しています。
それは、プロ生活は人生の中で「微々たる時間」であり、あっという間にプロ生活が終わるからであります、相撲の世界も同じであり、確かに早い時期から稽古して絶頂期を迎える時期は、22歳からだと言われています、その時期を逃したら大関・横綱は無いとまで言われているんです。

確かに相撲の世界では「今、横綱に大関になるべきだ」と、いう時期が確かに到来する、今を逃せば
横綱、大関は無いと、それこそ3年先の稽古が無駄になると、言われる御仁もいると言う。
次回