啓発(言いたい事は山ほどある)C

 

 

私が子供の時に、住職の説法を、地域の人に教えると言うか、話すと言うか、聞いて頂いていました。

それは、テレビも無い時代でしたから、家の過去帳を参考にして皆さんに話をされていたんです。

それは、素晴らしい過去帳でした、私達の街に「津波」がきた時の記載がありました。

宝永の津波の事や明治維新の土佐藩の事や坂本○○の事が事細かく記載されていました。

その記載には、我が町を襲った津波は「一山越えた」と記載があったんです。

私達の地域(海洋高校講堂に於いて)に、確か30数年前に地震学者が来られ、地域の人が何百人も集まり、真剣に津波の説明を聞いていました。

その時、宇佐小学校の女性の校長先生が「もし津波が来て、直ぐに逃げるのが間に合わない様な時は、子供達を何処に避難させればいいですか」と、質問された。

すると、その学者先生はこの地域に、もし津波が来たなら、この地区には15mの津波ですから、中学校は3階建ですから「屋上」に逃げれば大丈夫ですと、自信たっぷりに言われた。

 

当然、家の住職は皆の前で質問された「この街に来る津波は、『一山』超える」と、発言され、地域の人はビックリされ、次に発する学者の話に聞き入っていた。

学者先生は「先ず、間違いなく15mです」と、再度言われた。

 

住職は我が寺の「過去帳が間違いである」と、言われるのかと、ハッキリ「大きな声で」言われた。学者先生は、地域の皆さんに向かって、もし「一山越す津波」が来るなら学者失格ですから・・。

 

皆さんは、地震の事や津波の事が余り良く分からないので、何を信じれば良いのかと、各自が話しながら、講堂を後にしていた。

帰っている地域の人に対し、住職は、地域の皆さんに向かって「過去の事象を良く把握して」事を起こす様に言われていた。

本立ちて道生ず(もとたちてみちしょうず)「何事につけても根本がしっかりしていれば、自然と次に進んでいくモノだ」土佐藩に代々伝わる、諺にあると住職から教えられた

 

地域の高木診療所の先生と、地震学者の先生が名刺交換され、又市の職員達も診療所の先生と名刺交換された、市の職員は診療所の先生の事は良くご存じの筈であったが。

 

それから暫くして、国、県が高知県の太平洋側には、30mを超える津波が来ますと、発表した。

その様に大切な事を記載してある「過去帳」を、戦前に高知県の県庁の職員が「是非にお借りしたい」と、家のお寺から持っていったのです。(あの徳島の学者先生は、今どうされているのかな)

昭和21年の津波の時に「県庁の職員」が、お寺「摂心院」を訪ねて来られ、住職と話をされた。

その時の話しは、この過去帳に記載の事が公になると、高知県のイメージが、だから今一度・・・。

 

住職は地域の人に以下の諺(ことわざ)を話された。

「善(よ)き人の言(げん)をよく用いること」と、土佐藩の言い伝えだと。

うまくいかない、判断できないという時は、自分の尊敬・信頼している人の助言をよく聞いて、その通りに実行してみることも方法の一つだと、言います。

 

良い結果が生まれ、また自分も学べるのだと、言います。

聞き耳をたて、語ってくる「何かを聞く様に」いつも住職は言います。

 

随分前に、以下の如く松下氏が言われた事を、住職は話された。

松下幸之助は「電池が語りかけて」くると、言われた。

第二次世界大戦後の混乱期には、原材料も乏しく、乾電池にも不良が出ることがしばしばあった。

 そんなある日、乾電池工場を訪れた幸之助は、責任者から不良が出る状況について説明を受けたあと、不良の乾電池を23ダースとコードのついた豆電球を10個ほど自宅に持ち帰った。

 

翌早朝7時、幸之助はすぐに来るようにと、電話で責任者を自宅に呼んだ。

責任者が訪れると幸之助は、まだ蒲団の中にいた。

 

その枕元にはあかあかと豆電球をつけた乾電池がずらりと並べられていた、それを見た「責任者」は、

多くの創業経営者が持つ常識を超えた集中力、ほんとうに商品から「語りかけて」もらえるような情熱、距離感で、事にあたると、思いがけないアイデアに行きあたる、と言われた。


住職の言わんとする事は。

人間生きていく為には、色々な出来事に遭遇する、その時に慌てて事を実行するのでは無く、日頃から色々な方面に向かって情報収集をする様にと、その為には「聞き耳をたてろ」と、言います。

 

そうすれば、聞こえないモノが聞こえてくると、又感じると、言います。

必ず「聞こえてくる、又必ず感じる」と。  

学者先生「真逆、未だに学者をされていないでしょうね」お聞きしたい。

終わり