啓発(言いたい事は山ほどある)A
本立ちて道生ず(もとたちてみちしょうず)「何事につけても根本がしっかりしていれば、自然と次に進んでいくモノだ」諺にあると住職から教えられた、又論語の「孝悌は仁の祖なり」と同じだと。
人間の一生はあっというまに終わると知れば、人の前で「意地」を捨てられる様にするべきです。
よく聞いてください。
昔、家の(高知県)住職の「説法」を聞きに来ていた人が、私を見て座布団をもらえるかと言われた、当然、私は奥座敷から一枚座布団を持って来た、持って来てその人の前ではなく一番端に座布団を置いて、その人に対し「どうぞ」と挨拶をして、座布団を案内した。
その人は私の顔をマジマジと見つめ、私に対し「何故ここに座布団」を置いたかと、聞かれた。
私は真ん中に置いたら「叔父さんには似合わない場所」だと思って一番端に置きましたが、何か。
何故「この叔父さんには似合わない場所」だと思ったか、と聞かれましたから。
ハッキリと言いました。
いつもお袋や住職が言っています「心配り」の出来る、又「気配り」の出来る人は端に席を構えてあげなさいと、言っていました。
私は叔父さんを見てそう感じたんです、間違っていますか。
何故「この俺が心配りや気配りが」出来る人間だと、何故言えると、聞きましたから、再度ハッキリと。
叔父さんと私の会話を、50人からの人が黙って固唾を飲んで聞いていました。
当然、住職やお袋も、黙って私と叔父さんとの会話を聞いていました。
私は住職から教えられた事を、叔父さんに言いました。
「遠くからでも誰かが見ているし、何処かからでも見られている」と思えと、子供の頃から教えられました。(誰もいないし、誰も見ていないと思って油断するなと)
叔父さんは寺の門を入って直ぐに「手を洗い、うがいをし、身形を整え、深呼吸をして」本堂に入った態度を、私は自分の部屋から見ていて、思ったんです。
「この人は」本能的にどんな人かなと思い、本堂に出て来ました。
人に対しての「気配り」「心配り」を感じたから、体がそう動いたんです。(中学2年生の時)
叔父さんは、誰もが皆んなやっている事だろう、何か違う事をこの「俺」はやったか、と聞かれたから。
私はハッキリ言いました。
説法を聞きに来られた皆さんは、本堂に上られ「後ろ」を通って皆さんに挨拶されて席につきます。
叔父さんは座ってる皆さんの前を、堂々と進んで来られた、その時に来られている皆さんの顔を見られ皆さんに挨拶をされていました、それも一人一人に対し、隅から隅まで素早く挨拶をされていました。
この仕草は席についてる皆さんに対し、今晩は、こんにちは、遅れないで来ましたよと、誰へだてなく楽しそうに語りかけていました。
皆さんきょうも「宜しく」と、心を込めて話されている様に、私には聞こえました、だから・・です。
皆んなが聞いているその時に、家の住職が話を始めました。
今の会話を聞いていて、皆さんどうですかと。
すると、その叔父さんが「頭を棍棒で思いっきり殴られたみたいだ」と言われた、皆さんは大爆笑。
私に対し、叔父さんは、昔住職に「ある時に引き、ある時に押す」だから自分の体というものは、何時までも元気で健康でいられると、教えられた。
それは「何時も力いっぱいの人生をするでない」と、「余裕」を持った人生をしろと、住職から教えられたと、言います。
それを「ここでこの僕に、格好つけているところを、見破られた」そんな感じがする、この本堂に入る時には「羞恥心や意地や邪や業」を捨てて入って来るようにしている、そう住職から教わった。
でも中々出来ない、出来たと思っても、住職に「ここに座れと」言われ、前に座る事になる。
続く
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