啓発(なかなか思う通りにいかないからね)

 

 

 

 

自分の周りの人が、出世をしたからといって「落ち込んだり、ヤキモチ心」を持ったりする事がありますが、それは人間として人として当たり前の事なんです。

その感情は決して悪い事ではないのです、寧ろ良い事といった方が正解かもね。

昔から、落ち込んだら「それ以下」はないから、その人間を上昇させるだけだと、言われています。

それは、奈落の底(気分が落ち込む・やる気がない)に落ちたら、這い上がるのみだからです。

 

例えば、彼女に振られたら、次は振られないように気を使い、良い人間であるように自分自身を磨くんですよ、そして又彼女と知り合い、恋愛をして自分自身を磨き人生を全うします。

誰も知り合った彼女に嫌われようとしないですよね、毎日毎日自分を磨き「好かれる」ように生活します。

 

誰かが「落ち込む」事を「不安」だと、言った先生がいたけれど、落ち込むのと不安は根本的に違うと思います。

それは、彼女に振られて「不安」になったと言いますか、言わないですよね、彼女に振られて「落ち込んだ」と言いますが、どうですか、同じですか。

私は「不安」を取り除くと言いますが、落ち込んでいる人に、その落ち込んでいるのを、取り除いてあげると言わないです。

 

余談ですが、昔、家の住職が奈落の底に落ちたカンダタの話をしてくれました。

御釈迦様はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を覗き見た。

罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(犍陀多)という男を見つけた。

カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。

それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだ。

 

それを思い出した御釈迦様は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。

暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。

ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。

このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって「この糸は俺のものだ、下りろ」と喚いた。

 

すると蜘蛛の糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまった。

無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思ったのか、それを見ていた御釈迦様は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去ったと、言われています。

 

 

 

私が言わんとする事は、自分自身の事を考えていると、スッキリして良い人生を過ごせるけど、いい人で人生を過ごすなら「イライラ、ヤキモキ」した人生になりますね、と。

どちらの人生を選ぶか「本人だけが」知っている、カンダタになるか、言いたい事をハッキリ言って「素直」な人間になり、人生を全うするか、自分が決めるのです。

 

人生を楽しむ事です、嫌な事をするのではなく、やりたい様に好きな事をするべきです、でもデキるかな。

「いい人はデキるリーダーになれない」 私の著書の如くかな。 

楽しく生きるという事は難しいですが。楽しく生きましょう。