啓発・大相撲元関脇でタレント荒勢(物事の通りが分かるように)

 

 

今年の干支(丑年)がくると、思い出すのが現役時代は猛烈ながぶり寄りと、もみあげで人気だった荒瀬氏の事です、私とは親戚になりますからいつも意見を言います、若い時は相撲界のスターでした。

六本木のアマンドで待ち合わせしていて、04年に心筋梗塞(しんきんこうそく)で倒れたんです、私がアマンドに行くと、椅子やらテーブルやらが、散乱していたんです、店の人に話を聞くと「荒瀬さんが急に苦しんで、暴れ出し」救急車で運ばれたと言われました。

前々から、寝汗をかいたり、寒気がしたりをうったえていましたから、大学病院で検査入院するようにはしていました、私が強引に「大学病院」に連れて行けばよかったと、今は「後悔」しています。

 

救急車で何処に運ばれたか聞いて「渋谷の広尾病院」に駆け付けましたが、面会は出来なかったです。

その時に全てを診べて貰ったほうがいいよと、彼に伝言してありました。

それまでに「腎臓がん」も分かっていて、色々な病院にかかっていましたからね、母親も知らなかったと、私に言っていました。

心配するから周りの人達には、知らさなかったんでしょうね、私には、車の運転を頼むから、言わないといけなかったですからね。

一週間に2箇所の病院に行っていました、あそこが(栃木の病院)良い病院で最新の技術でやっていると聞くと、飛んで行きましたからね。

脳梗塞(こうそく)心筋梗塞は次にくると、危ないからと言われていました。

 

さすがに退院の後は、荒瀬氏に言いましたよ、私が高知に帰っているから「高知に帰って来れば」とね、我儘な荒瀬氏は「分かった、高知に帰る」と、言いましたからね。

部屋の整理、プロダクションの整理、全ての整理をして、一年後に「高知」に帰って来ました。

 

帰って来ればと、言った以上は「私の責任」ですからね、朝迎えに行って、帰りは送って行きましたから、昼間は荒瀬氏は色々と用もあったでしょうから、スポーツジムで待ち合わせして運動して、汗を流し、サウナに入って高知のファンや支持者と談話して、いの町の自宅に帰るんです。

 ある朝、高知の入院している近森病院から荒瀬氏が朝の5時過ぎに亡くなったと聞き、病院に駆け付けました、それは部屋が大変な事になっていました、男性看護師が何人も怪我をされていました、荒瀬氏か発作で胸が痛いため、暴れたんです、押さえつけようとしたんですが、元相撲取りですから

ベットやテーブルや椅子が粉々に壊れていました。

孝子お母さんが葬儀の時に「皆さんに、息子の葬儀をするほど、悲しいものはないと、出来れば母の私が先に逝ってからにしてほしかった」と、涙ながらに話した事が、未だに耳に残っています。

 

年になると、これからも荒瀬氏の事を思い出すんでしょうね。

住職にこの話をしましたら、住職は「荒瀬には、太く短く生きるか、細く長く生きるかは、神のみぞ知る」と言ってあると、言っていました。

荒瀬は、住職に「私は世には少しは知られましたが、少しは貢献したんでしょうか」と聞かれたと言います。

住職は荒瀬に対し「世の為人の為に役に立ったかどうか、又自分自身が人生で満足したかしないか」その答えは、『体はなり、心はなり』(吉田松陰)と言ったと。

体は自分のものであり、心はみんなのものである、体は死んでも、荒瀬という名前は後世に残るとね。

 

後、どれ位の命か(許される時間か)荒瀬氏は知っていたんでしょうね、住職と随分話されたみたい。

病院に行くのを嫌っていたのに、自分から入院しましたから、私に「死ぬ時は、の上」だなと。

私は縁起でもないから、そんな話をするなと言いました、随分穏やかな「」になっていましたね。