啓発(心を込めて言います)

 

この前ホームページに掲載しました「無念」について、皆様から多くのご意見のメールを頂きました。

「無念」には二つの意味があると、言われます、有難う御座います。

まず「邪念がなく、無心であること・すなわち正念」。もう一つは、「正念を失って口惜しく思うこと」です。

したがって、無念には、「無心」と「残念」の相反する意味があることになります。

 

「無念無想」のときは前者で、「残念無念」のときは後者です。

「無念無想」とは 心を無の状態にして、妄念邪念から脱却し無我の境地に至るということです。

「正念」簡単に言うと悟りを開くということです。
」と言う言葉自体が 「邪念」か「正念」かの2つの意味があり、どちらでとるかで意味が正反対になると考えられます。

 

本当は心の中では残念な気持ちだけれども、自分自身に言い聞かせる様な気持ちで「無念」と言うのを、実際の心情を汲み取って「悔しい・残念な気持ち」という意味合いに変わってしまったのではないのでしょうか。

 

無念という言葉には後悔、残念、悔い、心残りなどといった意味合いがあると、言います。

 

以上のように、大変有難い解答というか、教えを頂きました。

今から50年前の5000円はに沁みて今でも忘れられない。

父母は亡くなり叔父を頼って出かけるも、お金が無いために君に頼った、その為に君の大学の授業料を使ってしまい、大変申し訳なく心が痛い、何とか叔父の家に行く事ができ必ず借りは返すと。

一生懸命働き夜間の学校に行き、死にものぐるいで勉強して大学を出た。

その後資格(弁護士)を取りこれからと思う時に「天国に召された」私の所に届いた手紙に「無念」と書かれていた。(何十年も前の話です)

手紙と一緒にお金も入っていました、このお金には「気持ち」が込められていました、何だか分からないですが、重かったですね、中に多く入っていたとか、そういうのではなく、何かズシッと・・・。

こういうのを「のこもった贈り物」というんでしょうね。

昔、田舎(生まれ故郷・高知県)に住んでる頃に、住職からこんな事を言われました。

「心程、人の能く知る者はなし」と、この言葉は長州の吉田松陰の言葉だと。

  「心ほど、他人に見えるものはない」

心というのは、体のうちにあって、他人から見えるモノではない、だから普通の人は、心は放っておいてよいと考える。

人のというのは、目に見えないものではあるが、実は他人からよく見え、分かるものだと、教えられた。

心ほど人に見えるものはないと、教えられた。(目もそうですけど・目は口程にモノをいう)

彼の話に戻ります、彼は最後に一言「頼む・・・」とね。

上記の彼は、余りにも全力で「勉強」したんです、休む事を忘れていたんです、彼から聞いたんです「余りにもガムシャラに」やり過ぎ、自分を顧みなかったと、それが少し悔やまれると。

私がいつも言っています、休む休み方、力の抜き方、最初から最後までガムシャラにやるんではなく、何処で力を抜くか、決して手を抜くんではないですよ。

朝から晩まで働いている人は、気を付けて下さいねと、前々から言っていますよね。

それは心身が「疲れる・特にが」だから、メリハリをつけた、手の抜き方を身に付けるのです。

じゃどうすればいいか、何もかも忘れる事が大事です、それぞれ人は考え方や、行動や、タイプが違いますからね、その人に合った「手の抜き方」をやるんです。

 

それは、旅行に行ったり、スポーツをしたり、彼女とデートしたり、家でゴロゴロ寝たり、色々な休み方がありますからね、間違った休み方をしないようにね。

 

ここにも一人危なかった人間がいました。 

激しいストレスによって三半規管や自律神経の不調、めまいに襲われ、音程をとることも難しくなっていたのだそうです。ATSUSHI

 

「このままだと壊れてしまう」と、心身が折れてしまうと、確実にATSUSHIは追い込まれていたと、言います。

何でもかんでも「一生懸命」はダメだとね、だから彼は「渡米」して一年半も休養したんだそうです。