啓発(憑いているモノを捨てろ)
前回の上田さん(ハワイ在住のキョッポ・在日韓国人)の続きです、上田さんがハワイに帰った後、家の住職に頂き物を渡そうと連絡したら、中を見ろと言われ開けて見たら、ビックリした・・・。
住職に対する感謝の気持ちが現れていた、相当感謝しているんだなぁ〜。
多分上田さんは自分の死期を感じているのかね、ハワイに帰る時に私に「一言」こう言った。
人には必ず「意地」がある、その意地を遊ぶ時や彼女との時間の時は「捨てろ」そうしないと楽しさが半減するし、気持ちが入らない、相手に対して失礼な事だと、言われた。
今巷で流行っている「スマホ」を彼女や友達の前で平気でやっている、あれはあれと思ってはいけない、人に対して失礼な事と分からせるか、分かるまで・・・。
その人間に「憑いてる」モノを取らないとな、と言われた。
人間の一生はあっというまに終わると知れば、人の前で「意地」を捨てられるだろうに。
昔、家の(高知県)住職の「説法」を聞きに来ていた人が、私を見て座布団をもらえるかと言われた、当然私は奥座敷から一枚座布団を持って来た、持って来てその人の前ではなく一番端に座布団を置いたら、その人は私に「何故ここに座布団」を置いたかと、聞かれた。
私は真ん中に置いたら「おじさんには似合わない場所」だと思って一番端に置きましたが。
何故このおじさんには似合わない場所だと思ったか、と聞かれた。
いつもお袋や住職が言っています「心配り」の出来る、又「気配り」の出来る人は端に席を構えてあげなさいと、言っていますから。
何故「このおじさんが心配りが」出来た人だと、何故言える。
周りの人や住職やお袋が黙っておじさんとの会話を聞いていた。
私は「遠くからでも誰かが見ているし、何処かからでも見られている」と思えと、子供の頃から教えられました。(誰もいないし、誰も見ていないと思って油断するなと)
おじさんは寺の門を入って直ぐに「手を洗い、うがいをし、身形を整え、深呼吸をして」本堂に入った態度を、私は自分の部屋から「見ていて、この人に」本能的にどんな人かなと思い、出て来ました。
人に対しての「気配り」「心配り」を感じたから、体がそう動いたんです。(中学2年生の時)
誰もが皆んなやっている事だろう、何か違う事をこのおじさんはやったか、と聞かれたから。
本堂に上がられて、皆さんが席についている「後ろ」を通って皆さんは席につきますが、おじさんは座ってる皆さんの前を、堂々と進んで来られた、この仕草は席についてる皆さんに対し、今晩は、こんにちは、遅れないで来ましたよ、皆さんきょうも宜しく、と私には聞こえました、だから・・です。
本立ちて道生ず(もとたちてみちしょうず)「何事につけても根本がしっかりしていれば、自然と次に進んでいくモノだ」諺にあると住職から教えられた、又論語の「孝悌は仁の祖なり」と同じだと。
皆んなが聞いているその時に、家の住職が話を始めた、今の会話を聞いていて、皆さんどうですか。
すると、そのおじさんが「頭を棍棒で思いっきり殴られたみたいだ」と言われた。
私は昔、住職に「ある時に引き、ある時に押す」だから自分の体というものは、何時までも元気で健康でいられると、それは「何時も力いっぱいの人生をするでない」と教えられた。
それを「ここでこの僕に、格好つけているところを、見破られた」そんな感じがする、この本堂に入る時には「羞恥心や意地や邪や業」を捨てて入って来るようにしている、そう住職から教わった。
でも中々出来ない、出来たと思っても、住職に「ここに座れと」言われ、前に座る事になる。
死ぬまでには何とか端に座る事が出来るかなと思って住職の「説法」を聞きに来ていたが、まだまだだなと、思っている。
すると、住職は「皆んなが畑仕事をする時、鍬を振り上げ振り下ろす時に、毎回全力で上げたり下ろしたりしないのと同じで」どこで力を抜くのか、考えてやるだろうと。
人生も同じで「力の出し、入れ」を考えてやらないと、体が壊れるだろうし、持たないだろう。
壊れたら「元も子もなくなる」だから、要領のいい人間は「短期間は出世したり、力を出したふり」をする、それは何時までも続くものではない、それを「化けの皮が剝がれる」と言う。
一度剥がれたモノは、元には戻らない、それを「信用」と言う、と住職は話された。
上田さんの言われた「信用」を信じて谷さんと一生涯付き合う事が出来たんだな。
信用=意地=意義(価値・重要性)かな。
いいこと教わったな。
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