啓発(言ってはいけない事がある)
先月ハワイ在住の上田さん(キョッポ・在日韓国人の褒め言葉)が日本に里帰りされて、私の所に寄ってハワイに帰られた。
私に会っての第一声は「ナベ、俺は後どれくらい生きられる」と、私の話を聞かないで又喋り出した。
「日本に里帰りするのは何年ぶりかな」と「そういう気持ちにさせられるという事は、死期が近づいている」という事だろうな〜と。
ナベの親父に会った時言われた言葉が今でも耳にこびりついて居る。
「死して後、己(や)むのみ」
やめるのは、死んだあとでいい。吉田松陰
家の財産をハワイに持って行き開発しようとした時「ふと、不安になってお前の親父に話を聞いて貰った」その時に言われたこの言葉で全てが始まった。
「俺は89歳」この前亡くなった谷とは同世代、俺の方が長生きして居るけどな。
谷と俺(上田)は同じキョッポ(在日韓国人の褒め言葉)谷は、俺と違い色々人生で有った、アイツは悪い事の方が多かったと言っていた。
谷は(俺は生まれて良い事が無かった)が口癖だったな。
ただ上田と(出会って金儲け出来た事)知り合った事が、良い事だったくらいかなとも、言っていた。
俺は(上田)親にも恵まれ、親父の仕事(四谷で産廃業)で財をなし、いう事なしの人生を過ごせた、ただ差別は有ったけどな。
差別とは「朝鮮人の子供」と言われ、嫌な思いをした、何処でも有る事だけどなと、その他は何もなく育ったと、笑いながら話をしていた。
ある時、ふと考えた、大学を出た時に俺のこの世の「存在は」と考えた時にな、これからどうすればいいのか毎日毎日考えていたら、お袋が俺の前に座って言った一言に「心」を動かされた。
お前は必要とされたからこの世に「存在」して居るし、生きて居るんだと、だから自分の好きなようにこれからの人生を生きたら良いと。
やりたい様にやりたい事をやったら良いと、全てお袋はお見通しだったな。(3つのやと言う)
それからアメリカ本土に渡り何年か過ごし、ハワイに寄って日本に帰って来た。
それから何年かしてハワイで相撲の巡業があり一緒に行って「谷さん」を紹介してくれたな、お前が谷の話を日本に居る時にしていたからな、その後はお前の話やらで、ウマがあった「全く育った境遇・環境が違ったから」やる事なす事全てウマがあったな〜。
後はナベお前の知ってる通り「ゴルフ場」の開発や、住宅の販売をやったら悉く(ことごとく・全て)が上手くいった。
俺は嫌なら何もやらなかった、だから良い友として「谷」が死ぬまで付き合う事が出来た。
何故、ナベにこんな話をするかだ「お前がこんな連中や、日本の凄い連中を」知ってる最後の人間だからな。
野村、住友、渋谷、銀座、関西の超大物は全てお前を通じて話をしたな。(皆んな亡くなったけど)
谷の人生の話しお前も聞いてるな、谷とは酒を飲みながら色々話した、谷の人生は凄い人生だったな。
俺も谷もキョッポだけど、俺以上に谷は日本人だったかもな、体の中には「サムライ魂」がギラギラしていた。
谷が亡くなる何年か前「ホノルルカントリー」でゴルフをしていた時に、前でゴルフをやっていた4人が、グリーン上で喧嘩をしだした、二人で黙って見ていたら、喧嘩をしていた一人がゴルフクラブを振り上げた、その時に谷は韓国語で「おい、どうせやるなら日本刀でやれ」その方が見ていて面白いと大声で言うと、クラブを振り上げた男は、谷に「シャラアップ」と言った、谷は怒ったね。
谷はすかさず韓国語で「俺の車にピストルが2丁ある、それを持って来るから、そこを動くな」と言って車に行こうとしたら、4人の内の1人が「谷さん勘弁して下さい」と謝った、谷の事知ってる奴だった。
4人が谷や俺に謝ってゴルフを止めて帰って行った。
直ぐにゴルフ場の責任者が来て、谷に「すみません」と謝った、谷は「ゴルフ場が謝る事はない」韓国人4人が悪いんだからと、そのままゴルフを続けて帰った。
俺が言いたい事は、お前が昔言った言葉だ。
(世人の、事を論ずる、浅き者は事の成敗を視、深き者は人の忠奸を視る。かくの如きのみ)
「物事を見極めるとき、考えの浅い人は結果だけを見る。
考えの深い人は、心が誠実かどうかを見る。
こんなものである」吉田松陰
谷にはこの言葉があてはまる、だから親しく付き合った。
せめて一年に一回は顔を見せろ、次はいつ来るか、と言ってハワイに帰って行った。
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