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童話〜500円玉の願い〜(一)
ある二月の夕方、雪の降っている寒い日でした。 小学校三年生くらいの男の子が、私のマンションの駐車場に一人、傘をさしぽつんと立っていた。 その日はことのほか寒さがきつく、私も寒さのあまり小走りにその男の子の前を何気なく通り過ぎて買い物にでた。 三十分ほどして再び駐車場の前に来ると、まだ男の子は震えながら立っていた。顔を見ると何度か見たことのある男の子である。通り過ぎながら、 「寒いのにどうしたの」 降りしきる雪を見上げ、傘を持った手に息を吹きかけながら、寒さに耐えている。小さな身体に雪が当たり、肩には雪が積もっている。 「友達を待っているの」 マンションの玄関を開けながら振り返り、身震いしながら、男の子に手招きする。 「寒いからマンションの玄関に入って待っていれば」 「うん」 玄関の中に入り、ガラス越しに先ほどと同じように外を眺めていた。私はそのまま上に上がり自宅へと戻った。 小一時間ほどして、ゴミ捨てにでると、まだ男の子は居た。 ゴミ捨てを終え、 「随分長いこと待っているけど、お母さん、お父さんに言ってあるの」 「お母さん、九時までお仕事。お父さんはいないの」 私は余計なことを聞いてしまったと後悔しながら、 「友達は……」 塾の方を指差し、寂しそうなまなざしで、 「あそこ」 「君は塾に行かないの」 「行っていたけれど、止めちゃった」 「どうして」 「お母さんが、お金が無いから行くのを止めてくれるって言ったんだ」 「そう、そうか」 申し訳ないことを聞いたと思いながら、自宅に戻った。三十分位してから缶に入った温かいポタージュを渡そうと思い立って階下に降りていくと、男の子は帰った後だった。 それから何日かして、マンションの駐車場にまたあの男の子が寒い中立っていた。車から降り、男の子に声を掛けようと思った時、お母さんらしい人が男の子に近づき、何やら男の子と話していた。 私は二人に近寄り、お母さんに挨拶し、男の子にまるで十年来の友人のように親しげに挨拶した。 「今晩は」 「あ、おじさん、今晩は」 元気よく挨拶する男の子を、母親は嬉しそうに微笑んで見ていた。その母親に、 「どうして本人が塾に行きたいのに行かせてやらないの」 母親は黙ったまま私の顔を見ていた。 「このご時世に自分から塾に行きたいという子供はいないんじゃないの」 母親は頷き、小さな声で、 「十二月まで行かせていたんですけど。でも……」 といって男の子を見ていた。 「今一番大切な時だし、本人が行きたいといっているなら何とか行かせてやった方がいいと思うけど…」 母親は黙ったまま。しかし、横で静かに二人の会話を聞いていた男の子は、 「お母さん、僕行かなくていい。行かなくてもいいからね」 「どうしていけなくなったの。何か理由があるんでしょ」 「……」 「家の家賃が急に上がってしまって……」 (二) 母親が一人で働いて、一ヵ月に稼げる給料は大体十万円そこそこ。しかもパート。その給料から家賃、電気代、ガス代、水道代、学費、食費を引いていくと、自由になるのは一万円くらいとのこと。その一万円に皺寄せがきた。今年から家賃が五千円上がってしまったからだ。私はその話を聞き、 「大家さんとは話したの」 と聞いてみた。 家賃は大家の都合で一方的に上げられたものであった。私のマンションでもこの不景気のなか、家賃は据え置きにしてある。少し憤りを覚えながら、 「私が大家さんに話してあげてもいいが、私も不動産の仕事をしているので、ただでは受けられないが、いつでも相談にはのりますよ」 二人と話を終え、私はマンションの自室に戻った。 翌日のタ方、男の子は駐車場で私を待っていた。車から降りるなり、男の子は私に近づき手を差しだした。 そこには、ピッカピカに光っている500円玉。いつも大切に、しっかり握られていたと思われる500円玉。 「これでおじさんお願いします」 ただでは受けられないといったものの、ピッカピカの500円玉を目の前にすると、どうしても受け取れない。 「おじさんこれ」 「分かった。分かった」 報酬を受け取ったはいいが、何ともやりきれない気持ちで一杯になってきた。そんな私の顔を見て男の子は、 「おじさん、ほんとうにお願いします」 男の子は念を押すと、頭を下げて帰っていった。今までさまざまな仕事を受けたが、年齢も一番若く、金額でも一番安い依頼。でもやりがいのある仕事。その500円玉を手にすると改めて男の子の願いが伝わってくる。「おじさん、おじさんお願いします」と。 大家さん宅を訪ねる間、ずっと500円玉を見つめていた。大家さんは五分ほどして玄関に現れた。何度か会ったことがあり、会えば挨拶くらいはしていた。 「あなたのアパートにお入りの○○さんの男の子に頼まれてきました」 大家さんは目を大きくして、 「なんですか」 「今年から、家賃五千円上がったので、男の子が塾に行けなくなった。何とか元に戻してもらえませんか」 「いきなりなんですか」 「うちにはうちの事情があるから上げたんです」 「その事情とはなんですか」 「あなたに話す必要はないでしょう」 「私も近くで大家をやっていますが、このご時世に家賃の値上げはないでしょう」 「あなたは、あなた。うちは、うち。関係のない人にとやかく言われたくない。帰ってくれ」 「確かに大家さんにも事情があるのでしょうけど、二万円の家賃にいきなり五千円の値上げはちよっと見過ごすことはできない。普通家賃の値上げは、五%から六%が世の常識。二割以上の値上げはちよっと行き過ぎと思うがね」 「あなたにとやかく言われる筋合いはない」 「そうかもしれないけど、ひょっとしてあなたこのアパートから○○さんに出ていってほしいんだ。だからべらぼうな値上げをするのでしょう」 大家さんは顔色を変え、慌てた感じで、 「そんなことはない。出ていって欲しいなんていっていない」 瞬間、私にはピンときた。この大家は、親子を追い出し、このアパートを取り壊して新しいマンションを建てる心積もりだと。 「大家さん、よく分かった。来月から家賃を下げてくれなければ、不当な値上げのため、供託し、訴訟します。分かりましたね」 「ちよっと待ってよ。なにもそんなことまでしなくても。話し合いましょう」 「なにが話し合いだよ、大家さん。さっきの勢いはどうしたの」 「自分のしたことをよく考えてください。もし大家さん、あなたが同じことをされたらどうします。黙って家賃を払いますか。どうなんです。明日またきますから」 (三) 次の日、私が帰ると、マンションの前に大家夫婦が立っていた。車から降りて近寄ると、 「あの古くなったアパートを壊して、マンションを建てるつもりです。だから、訴訟は止めて貰えないでしょうか。訴訟になると何年もかかるし、せっかく建てる事に決まっている話しが壊れてしまいます。お願いですから、止めてください」 奥さんも申し訳なさそうに私の顔を見ながら、 「お願いします」 「じゃあ、立ち退き料を払って頂けますか」 「幾ら位ですか」 「幾ら位考えているのですか」 「○○さんには、十年近くいて頂いたので、二万円×十二ヵ月×八年と私共の弁護士は言っていましたが…」 「○○さんと相談してみます」 と言って家に帰った。その夜、アパートを訪ねると、母親と男の子はちょうど風呂から帰って来た所でした。 「立ち退きの話しになったのだがどうしますか」 「えっ、立ち退きですか」 「そうです」 「そうですか」 「お母さん、立ち退きってなぁに」 男の子の問いかけを無視し、母親は、 「どうしても出なければいけませんか」 「いや、立ち退かなくてもいいんですよ」 「…」 「誰も貴方達親子を立ち退かせる事は出来ないんです。でもね、本当の事を言うと、立ち退きというのは、宝くじに当たる様なもの。一生に一回有るかどうか分からない。そんなチャンスを逃す事はない。それにタイミング、それは相手が熱が入っている時に話し合うこと。お母さん、貴方達の事を私がどうこう言う事ではないが、自分達の事ですから良く考えてください。前の家賃でいてもいいんですよ」 「はい」 それから何日かして、私のマンションに母親と男の子が訪ねて来た。 「よく考えました。立ち退きます」 「本当にいいの」 「はい」 「そう」 母親は何かすっきりしたのか、笑顔で、 「すみませんが、次に行く部屋を探してくださいませんか」 「はい、部屋はちゃんと見付けてあげますよ。また、立ち退き料もちゃんと貰って上げますからね」 二人は嬉しそうに頭を下げて帰って行った。一週間後、母親は立ち退きにサインし、ある程度のお金を貰って近くのアパートに越して行きました。引越しが終わって、母親と男の子が私のマンションに来て、 「これ少ないですけど…」 と茶封簡を差し出した。 「何ですか」 「お世話になったお礼です」 「今度の事に関してのお金は頂いていますよ。僕、おじさんにお金くれたよね」 「うん、僕おじさんにお金あげたよ」 「ちゃんと貰いましたから、心配いりません」 「えっ、そうですか、でも」 「大丈夫ですよ、本当に」 「有り難うございました」 頭を下げ、男の子と帰って行った。 男の子は帰り際に指を二本立ててピースのサイン。 この様な話は世の中に幾らでもあると思う。ただ、私が携わったのがたまたまこの件であっただけだと。弱い者がいつも泣きを見る。これが、この世の常だと。私が居たから、また知ったから少しでもこの二人の力になれたけど、私が知らなければ、二人は泣き寝入りであっただろうに。私は、この二人の親子の事はいつまでも忘れる事は出来ないだろう。この男の子から貰った500円玉、何といって親方に話しをしよう…。 今でもこの500円玉は会社の金庫の中に入っている。 もう一つ、部屋を借り、二年契約する。二年後に更新。この更新の時、新家賃の一ヵ月分を取られる。この事も知らなければ損をする。 |